見出し画像

民主主義批判

民主主義という用語は具体的には定義できない

 民主主義:抽象概念としての用語、幻想、幻覚を利用する政治支配。
 少なくとも私が日常観るこの国の現実社会には民主主義という思考は実在しない。その確たる定義もない。民主主義ということばとそれによって想起される個人個人のイメージが存在するだけだ。選挙となると突然演説の中で、「民主主義を守る」なんていうことばが飛び出す。実際には一体何を守っているのだろうか。それが具体的に示されたことはない。
 古代から民主主義と翻訳されるような政治上の考え方は洋の東西にあった。中国には墨家という思考がある。
 民の生活を安泰にする。食を満たし天災から生活域を守る。これを成した者が天子である。墨家では賢い者による統治が最も民のためになると考えられている。私もそう思う。愚策で民の暮らしが良くなるはずはない。
 demos kratia というギリシャ由来のことばはどうか。これはたぶん王による支配ではなく民(大衆)が統治する政治体制ということを指しているのだろう。必ずしも賢者による統治ではないから衆愚をも意味する。
 実際、現代の日本では衆愚と言われても仕方がないほど政治は腐りきっている。独占資本主義の崩壊と相まって”民主主義”も衆愚化が著しく腐敗臭を放っている。
 現代欧米、日本の民主主義とは為政者の無責任主義のことでもある。フランス革命の経過があって近代民主主義が言われているのだから、失政するごとにギロチン刑や切腹にされてはかなわない。結局為政者には政治責任が有限化された。命がけで政治に携わり、その結果に命をかけて責任を負うという旧世界の考えは除かれた。失敗したらせいぜい辞職するだけだ。
 「民主主義が人々の生活重視の政治を志向する考え方だ」というのはどうか。為政者ならば昔からどこの国でもそう考えていたことなのだろう。
 人民の暮らしが安泰で納税がうまくなされ、兵が強ければそれが善政とされたのだろう。
 中国では悪政を成した者は革命で滅ぼされた。まあ、これはどこの国でも共通のことだろう。身勝手な富の独り占めなんて成り立たない。そんな王朝支配はいずれは滅びる。現代でもそれを志向する者がいるがまさに滅びようとしている。
 だが、何をもって善政とするか、善政を具体的に定義した研究は見当たらないし、democracyという用語が漢字圏では民主主義と漢訳されてからもそれの意味を具体的に定義したものはない。
 アメリカ民主党の演説においては「民主主義の勝利」ということばは使い古されているが、具体的に何が勝利したのかは不明としか言えない。
 台湾の民進党はしばしば自らを民主主義陣営だというが、そんな陣営は実在しない。
 資本主義と民主主義を結び付けて思考しがちなのは資本主義がカネを操作することでヒトや商品など現物を間接支配できるからだという幻想にとらわれるからだろう。王が人や商品(物品、資源)、生産用の土地を直接支配するならばどうか。それは旧社会の絶対王政の姿だった。資本主義的生産様式は通貨を資本とし、通貨操作を用いて労働者や製造物を間接的に支配する仕組みだった。この点では絶対王政よりもカネというクッションを間に置く資本主義が”民主的”と錯覚されるのかもしれない。

民主主義を数理的均衡論で捉えることができない

 経済は数理論的に物理化学の法則をなぞらえて近似的に思考することが可能である。
 私は、実体経済における商品や人材(現物)を水溶液における溶質、通貨を溶媒、通貨価値を溶液の濃度にみたてて捉えるモデルを提唱した。
  通貨価値=(生産物品量+人材)/通貨流動
 また、流体力学として通貨流通総額を流量、政策金利、間接税、取引上の手間賃など取引の障害となる要素を抵抗とみればその積が概念的に政策、プロパガンダ圧力となることを考案した。
    プロパガンダ圧=通貨流量 x 流動抵抗
 この圧力が商業的性質である限りは問題ないが、質的に政治圧、戦争圧となると危険である。(日本ではアメリカが日本政府に加圧する)
 従って、高金利、高税率、インフレーションというのは戦争ポテンシャルを高めていることになる。(ゼロ金利であっても高税率では同様の危険が増す)
 需要と供給の均衡で価格が決まってくることは従来から考えられていた理屈である。競りの市場である。
 では民主主義を数理論的に分析できるのであろうか。民主主義を定義できないのであればどうしようもないが、ここでは「人民の生活のための政治」という政治の目的を定めた思考ととりあえず言っておこう。
 この立場で考えれば上記の流動性の抵抗が小さいほど人民の生活は楽になるということになろう。つまり取引に関する課税や借金の金利、手数料、制度上の面倒くささなどが少ないほど生活は楽である。そういう視点で言えば社会保障制度は高給付を主張するよりも日常の必須支出の低負担化や無料化、制度の簡素化を求めた方が生活者は楽だということになる。
 一つの提案としては民主主義を数理的に思考するならば、流動抵抗が小さい社会制度設計ほど民主的ということにはなる。
 一般的には高所得社会を民主的だと誤解する傾向がある。高所得社会というのは金額が拡大されて回っているだけであり、民主や幸福とは関係ない。数字に0が一桁余計についているだけというようなものであり、こういった統計デマに惑わされてはいけない。(通貨機能の希釈、表示数値の拡大)
 通貨価値を担保しているのは現物の商品であり、人材である。(対応現物)その通貨で取引できる現物がなければいくら通貨がどっさりあっても意味はない。水溶液で例えれば、塩(現物)が充分なければ水(カネ)がたっぷりあっても薄まってしまうだけだ。塩という現実の価値の量は水の量には関係ない。カネがいくらあっても農産物がなければ食糧危機は起こる。日銀は食料危機をマネージメントできない。現物は汗かいて努力して働いて得るものだ。(仮想通貨ではマイニングにあたる)
 では流動抵抗が最も小さくなる社会モデルとはどんなものだろうか。
 それは江戸時代までのような、(金銭万能主義ではなく)地域的に自給自足が成り立っていた農業社会のようなモデルかもしれない。通貨が一般に用いられなければ金利もないし間接税もない。面倒な行政手続きもない。子育ては村人が互いに協力し合うから無料である。税は生産した現物を納めればよい。国は税をじかに個人には課さない。あくまでも村落共同体に課税するのだ。現代においても個人に課税することはやめて、法人、事業体などの団体や集団に対して課税するのみとすれば個人は楽になるかもしれない。(税率にもよるが)民主というのは個人を大切にすることが基本だろう。
 一言付け加えたいが、教育にカネがかかるというのは、制度設計の失敗である。幼児から大学まで完全無料であるべきだ。人材育成という最も重要な課題は国家が負う債務だ。民主というならば民を育てねばならぬ。
 国家の失敗が起こる原因は割と単純だろう。人材、商品(現物)、通貨の分布に偏りが生じていることを放置するからだ。この偏り(物理学では歪み、不均等分布)を社会的に是正し、社会的均衡を模索するのならばその統治システムは持続可能であろう。
  市場の偏在性=流通ストレス=社会圧 これらは比例関係
 この偏りが生じる原因は独占(欲張り)である。通常はカネを独占しがちである。現代は多国籍グローバル企業の金融市場の独占支配が問題である。この構図はいずれ崩壊する。いくらカネを独占してもその通貨価値自体が下落すれば終わりである。資源、食料、人材(農業人口)などが途上国に分布している以上、それらの国々と友好関係をもたない資本独占国家はいくらカネをもっていても滅びるだけだ。資産価格の数値だけ膨らませてもそれと結び付けられる現物資源に乏しければそれはあぶく銭である。
 2022年3月から対露制裁を西側は愚かにも行った。この結果、実際にはロシアは経済成長をし、西側は滅亡に向かった。ロシア側の貿易のドル決済を妨害したからだ。(ロシアをSWIFTから締め出したりロシアの口座を凍結したり)結果、ロシア側はドルを使わない貿易決済を模索した。そしてほとんどの途上国がドル離れを志向するようになった。BRICSの中央銀行デジタル通貨も貿易決済用に開発されそうだ。これがドル価値にとどめを刺すことになるかもしれない。通貨というものは商うモノがあってこそ価値を帯びるのであるから、その使用を制限するならば使い手が減り、価値は下落する。これを知っていて対露制裁したならばアメリカ政権内に自己破壊的な策士がいるということになり、知らずに愚策を連発しているならばただの愚か者ということになる。多分前者だろう。
 まさか大のアメリカが自滅するための方策をわざと解ってやるわけないじゃない?というかもしれない。しかし現実はその「まさか」である。エリート官僚組織はおそらく極端なトーナメント勝ち抜き構造なのだろう。エリートにとっては国は人民のために繁栄させる対象ではない。というよりそんなことは眼中にないだろう。自分より下位の者を蹴落とし、自分より上位の者の足を引っ張って昇進することだけが人生の目的だ。選挙制度もそうだ。自分が当選すること自体が目的であって国家人民の繁栄なんて口先だけの問題にすぎない。他の候補を落とすことに専念すればよい。エリートは自己中心主義、自己保身のために集団を結果的自滅に追い込む。みんなの繁栄のためには決して自己犠牲などしないものだ。エリートは学科試験ではおりこうさんなのだが、組織運営ではおばかさんなのだ。
          利己主義=自滅
         独占資本主義=自滅
 国の繁栄、地域の繁栄はエリート勝ち抜き戦思考では実現できない。
 驚くことには、22年の3月、日本議会のほとんどの政党がロシアのウクライナへの特別軍事作戦開始にあたり対露批判の立場をとった。
 ロシアは産油国の盟主である。ロシアに反対の立場をとったらエネルギーを輸入依存している国の実需経済は成り立たない。しかし各政党の内部の事情は具(つぶさ)にはわからぬがどこもロシアを侵略国だとして非難した。ロシア(プーチン大統領)は日本議会の議員の大半を入国禁止リストに挙げた。
 その後の経過は、やはり反ロシア国家群(西側諸国)の衰退となった。それがはっきりしてきても、ウクライナの敗北がみえてきても頑固に態度を変えずにいる。(2024年5月現在)
 民のための政治といっておきながら民の生活が不自由になる方向へ西側は対露制裁という愚策をとり続けている。エネルギー資源は枯渇し戦略物資の輸入は減少する。物価は上昇し続けている。(通貨価値は下落している)
 (私の印象では年間10%以上、円の価値が下落している。)
 なぜ日本議会の議員はこうもどれもこれも反中、露なのか。反中反露でファシズム(結束主義)組んでいるように見える。これはアメリカのしつこい喧伝とそれを鵜呑みに軽信する人民との相互作用の結果、大半の人々が反中世論に染められてしまい、親中と言えば票を失うという恐怖心に支配されたためであろう。
 日中友好、日露友好というのは巨大なユーラシア経済圏、一帯一路の流動に日本の実需流動を接続することである。資源や食料自給性に乏しい我が国をこの巨大な流動に繋げることが唯一の合理的な経済策なのだろうけど、それができないでいる。ばかげた話だ。人民の生活需要よりも議員、役人、マスコミのそれぞれの立場維持の方が優先した結果がこれである。民主主義ではなく衆愚にすぎない。議員は当選することしか頭にない。マスコミが反中世論をアメリカから圧力受けて捏造し、中国に対して良くない感情を持つ者の割合を80%以上に高めた。この洗脳が効いていてか、与野党の議員は親中を言いたくても言えないでいる。そんなこと言ったら票を失って落選だ。
 反中露というのは日本経済を実需から引き剝がし、世論を恒久的に衆愚へ誘導する洗脳操作だった。いったん洗脳されれば、それはなかなか解けないから、経済滅亡しても、日本人がなぜ滅亡したのか?原因すら自覚できないだろう。

民主主義は詐欺用語となった。
 
世界中の国で民主主義を否定するものは見当たらない。どこの国も自国が民主主義だと言う。社会主義を標榜する国は国名に民主という言葉を挿入していることが多い。~民主共和国など。
 欧米日では政党名に民主という語が挿入されることが多いが国名には民主は入らない。しかし、政党以外の団体名に民主が入る場合には社会主義を志向する左派系団体という印象があるようだ。しかし、いずれも数理的根拠をもたない。
「なぜ民主とつけたのですか」と尋ねると、
「まあ、これは名称なので」
「まあ、そうでしょうね。」
という会話になる。
 最近ごく一部のイスラム教国では民主主義という用語には否定的な言説が見え始めたが、全体としては稀な現象だ。
 民主は政権、政党などの宣伝用語、選挙期間限定の用語ともなっている。選挙が終われば民主を語る人はほとんどいなくなる。
 後述するが民主主義は植民地主義、傀儡覇権主義を糖衣でくるむようなカムフラージュ用語でもある。実際には日本は民主国家ではない。アメリカが日本の中央省庁を日米合同委員会を通じて指導し、その下に議会があり主権支配されている。アメリカもまたシオニストに牛耳られている国である。日米支配層が民主主義なんて言っても、それは詐欺ことばに過ぎない。

選挙制度が衆愚政治を作り出す
 
民主主義ごっこ
 選挙ではテレビで知名度が上がった者のみが当選する。日本には高額の供託金制度があり、カネのあるものしか立候補できない。カネで被選挙権を買うようなものである。テレビ知名度はマスメディアが支配するところである。日本はアメリカの傀儡国であるから、対米自立を主張すればテレビ界から干されるだろう。それでは有名にはなれないのだ。有名でなければ当選しない。テレビで対米従属的なことを言っていれば、当然現実とは乖離してくる。だからばかげた主張がテレビでは満載である。
 現実から離れた嘘、虚構、誇張、歪曲、事実無視、異常思考、科学的根拠なしの似非科学など、どうしようもないインチキ報道が臆面もなくまかり通る。
 アメリカのアポロの月面ウソ着陸、”天安門事件”に際して中国人民解放軍が民衆を弾圧したというデマ報道、サダムフセイン政権が大量破壊兵器を保有していたという嘘、自作自演の9.11”テロ”事件、地球温暖化人為説、単なるカゼであるコロナで緊急事態、有害無効のコロナワクチン、LGBT、ウイグル、香港での弾圧という嘘、書き切れないほどあるが、どれもこれも人権、自由、民主主義を謳うアメリカの繁栄みたいな嘘と捏造、虚構、インチキばかりで呆れるほどだった。これらを報じるテレビのいわゆる専門家と称する人々の愚かさにもホトホト呆れるばかりだ。そしてそれらの嘘を指摘すれば陰謀論だと片付けてくる。実にくだらない。

選挙では統治能力、立法能力に優れた者が選ばれるわけではない。
 
 
”民主主義”に選挙はつきものだが、実際に投票をするのは有権者の半分程度である。また立候補できる人はカネを納める能力があり、支持団体から推された人である。無料で当選する人はない。自由に誰でもが立候補可能で、全ての有権者が投票するのではない。
 団体から推されて、それなりにカネを集めることができる位置にある人が立ち、有権者のおよそ半数に人気、知名度のある候補が当選する。
 決して統治能力や立法の能力がある人が選別されているのではない。人気や知名度を高めるのはマスコミである。マスコミ受けがよければうまくいくのだろう。マスコミに悪宣伝されたら終わりである。
 近年X(元、ツイッター)TikTokなどのネット上の社交ツールがあってそこでの支持集めも試みられているが、まだまだテレビにはかなわない。
 

政党政治は統治、立法能力を欠いた集団によるため、影の勢力から隠然支配を受ける。

 多党制における政党とは統治能力を半減させた団体のことである。議案Aに賛成か反対か、議案Bに賛成か反対か、、、というように各論において世論が二分されるような議案があるとする。例えば、改憲、核武装、増税、安保関連法、LGBT、色々だ。これらに賛成か反対かで派を分けていく。すると政党には党議拘束などがあって結束主義だから政党は細かく分裂していく傾向を帯びる。支持、支援する団体もあれこれだからAには賛成だけどBには反対だというように政党は大きくまとまることができない。
 仮にどの議案も賛成反対が2分の1づつであるとするならば、そしてここにn個の議案が同時に提示されたならば、一つの政党が党議拘束された環境で一つのまとまった政見をもつならばその政党の支持率は2のn乗分の1になってしまう。そんなミニ政党をいくつ作っても意味はない。結局対米自立ができないようになる仕組みが強化されるだけであって、いつまでも国家は合理的な選択ができず、アメリカから加圧されて出された法案を強行採決で通し、愚策を連発し滅亡の道を進む。政権与党は20%程度の支持率があれば充分である。他の野党が党議拘束でがんじがらめで細分化された支持団体依存でそこから抜け出せなければ野党はいつまでも単なる少数勢力のままである。
 こういう各論分割戦略をとられることにより傀儡国は対米自立という大きな選択を決定する能力を削がれている。
 政党が政治のための団体ならばそれ自体が統治能力を持つ必要がある。統治というのは様々な異なる立場や考え方を同時に包含するものである。党議拘束という党内ファシズムの弊害に気づけないならばいつまでも小さいマニアック政策団体に甘んじているがよい。各論で分割された集団は思考が硬直化する。短絡的になる。他者の意見を聞き入れる器ではなくなる。そして党議拘束に過敏症になり、議員が自らの思考に基づいて意見を自由に述べることがなくなり、党の中央のまとまった見解に追従することしかできなくなる。どこが自由主義なのだろうか?民主主義なんて言いながら、他の意見に寛容でなく分派共存できずに排除しようとする。人間の思考なんて十人十色であるのが当たり前。一致しないのが普通。党議で拘束され意見が一色にまとまった小集団なんて異常だし気持ち悪いだけだ。
 政党が無能な細かい各論分割集団であり続ける限り、日本を支配するアメリカは安心していられる。そして隠然支配し続けられる。対米自立でまとまるなんてあり得ないからだ。
 政権に就ける政党というのは様々な立場を包みもって様々なチャンネルをもち縦横無尽に複雑な問題に対処できる総合能力を持つ集団でなければならない。単一のパターンの思考でまとまる必要などもともとない。法案作成、制度設計、問題解決というのは総合力である。政党が一つの思考でまとまっていなければならないなんて誰が決めたのだ?右派か左派か?そんなことはどうでもよい。政権政党には右ハンドルも左ハンドルもアクセルもブレーキも変速ギヤもついている必要があるのだ。
 怖いのは、党議拘束されたタカ派政党が実権を握った場合だ。彼らはタカ派で純化している。より尖鋭なタカ派がいいと信じ込んでいる。構成員はタカ派度合い比べをしている。だから弱腰だと批判されることを恐れる。弱腰な奴や妥協者は落伍者であり追放だ。強がっているが自己保身的で臆病なのだ。従ってブレーキが効かない。ブレーキが故障した暴走車である。これが本来の”独裁”の本質だ。私は独裁というよりも党内の純化、尖鋭化、操縦不能化、暴走化と捉えている。
 党議拘束というのは道を誤ったと気がついても、ハンドルが一つしかないから、方向修正が効かない。政党政治には宿命的な欠陥がある。
 結局多党政治は衆愚か危険なファシズムかのどちらかに移行する。

政治の無責任化 誰が政策に対する結果責任者なのか不明となる

 いわゆる先進国、民主国では政権の無責任化がひどくなっている。また、マスコミも嘘、歪曲や事実報道の制限などがひどくなっていて全体的に衆愚となっている。どのように立案がなされ誰が本当の決定者なのか、誰がその政策の責任を負うのか。さっぱりわからない。
 一方、決定権限と責任の所在が明確に一致する政治システムを持つ国(中国、ロシアなど)に対して、西側世界はそれを独裁だとか権威主義だとか喧伝している。
 対米従属国では首脳陣がピエロのごとく中央省庁が書いた政治という芝居シナリオを滑稽に演じているようにも見える。対米従属的な愚策の連続。愚策だとわかっているのにやめられない。何だかんだと屁理屈つけて中露が悪いことにして、あるいは制裁と称して自滅的愚策を連発して破滅の道を邁進している。

民主主義はカネ次第

 西欧でも日本でも民主国家とはいいながらカネがなくてはまともな生活はできない。これは説明するまでもないだろう。「民主主義」の恩恵を享受するということは、それを通貨で買うことである。
 欧米国家のいくつかは植民地や傀儡地をもつ。それらの被支配地域では労働の搾取が行われている。被支配地の低賃金労働を踏み台にして、支配層である欧米国家の豪華な生活があった。その実は植民地主義、帝国主義に他ならないがそれを糖衣的にくるんで民主主義と称していた。
 北欧の高福祉国家も結局カネ次第であり国際金融システムの上に成り立っていただけである。ドル基軸が崩壊すれば福祉は成り立たない。
 ドル基軸はドルが世界中の産物を取り扱える便利な打ち出の小槌のような仕掛けだった。ドルが世界中の資源や食料、労働の対価に裏打ちされているならばいくらでも発行できたわけだ。しかし、アメリカが気に食わない国を制裁すると称してドル決済システムから除外するに及んで、ドル離れが起きた。当然の応答だろう。
 2024年5月現在、世界の脱ドル化は急速に進んでいるようである。かわりに非ドル決済であるBRICSの中央銀行デジタル通貨の登場が期待されている。このシステムが貿易決済に使われるのが主流になればドルは不要となる。アメリカは戦争という武器市場なしにはドルの価値を維持できなくなっている。海賊だ。しかしアメリカは敗北する。ドル価値は失われ紙屑化してアメリカ経済自体が大崩壊する。

アメリカが敗北する原因はたくさんあるが、その主なものは
1,製造業が劣化しており技術水準が保てない。軍事技術レベルはすでに中露の方が上である。労働市場は移民に依存してきていると推定できる。
2,資源、部品製造を途上国に依存しており、それを敵に回せば供給網を維持できない。
3,そもそも他国を傀儡化しても、そこを安定統治する能力も気もない。アングロサクソンが裕福であればそれでいいという、自己中心思考だ。アメリカにとっての民主はアングロサクソンだけが享受するものだった。
4、ドル基軸がぐらついており、ドルの価値が不安定であり長期の貿易契約には向かなくなっている。
5,アングロサクソンの一部がユダヤ人を騙り好戦的なシオニストになっている。彼らはユダヤ資本家と結託しアメリカを支配している。この構造は民主主義のイメージを破壊し、西欧にシオニズム対非シオニズムの対立軸を作り出し、シオニズム解体の契機となる。これはまた、アメリカを分裂内戦に導く可能性がある。


マスメディアが支配するいびつな類シオニズム

根拠不明の古代?神話に依拠する自己中心的な民族主義を捏造して約束の地を設定してそこを侵略する。そこに長らく暮らしていた先住民を排除して自国が民主国家だなどと身勝手な主張をする。先住民を奴隷のごとくこき使い、歯向かえば虐殺も辞さない。狂気の沙汰である。
 日本にもシオニズム類似の似非神話由来の捏造民族主義がある。これらは本当の民族主義ではない。だから民族共存の知恵が発達しておらず、他者排他的である。民族主義とは民族の繁栄と伝統的生活、文化の保持を尊重する生活の知恵の集積である。しかし、残念ながら日本にはそうした知恵が徳川時代を最後に、明治維新によって捨てられ、似非民族主義に書き換えられてしまった。従って、日本の20世紀は近隣諸国への侵略戦争史で始まった。周辺国とうまくやっていく知恵を習得する機会を自ら棄ててしまった。
 明治以降の近代マスメディアはこの似非民族主義を拡散する役割を果たしてきた。明治はイギリス模倣で始まった。イギリスは自国の資本主義的生産が行き詰まりアジア、アフリカを侵略して植民地に奴隷労働を強いて利益を搾取することで支配を拡大した。資本主義が発達したのではなく、盗賊性が拡大しただけである。私はこれを海賊資本主義と呼びたい。
日本でも資本主義的生産は増やしていったが、欲は尽きない。イギリス帝国の真似であるから、帝国主義、海賊主義まで真似をして中国、東南アジア、太平洋の諸島を荒らしまわった。結局英米ともシマ争いになり、大陸では中ソに、太平洋ではアメリカに負けて日本の帝国主義は滅んだ。しかし海賊であること自体は英米から許されたらしい。なぜならば海賊としては同類だからだ。
 明治政府は民族主義を捏造するのに古事記、日本書紀を持ち出した。記紀は奈良時代に編纂されたとされる。現存するのは鎌倉時代以降の写本である。実際には後世、写本の過程であれこれ書き換えられた偽書だ。内容も荒唐無稽で史書と呼べるものではない。
 大雑把に言って、日本列島に現在住んでいる人民の大半は朝鮮から渡来してきた人々の子孫だ。残りはアイヌ(日本列島先住民=縄文人の子孫)かその子孫だ。
 この科学的事実分析を無視して日本固有民族が古代からいて万世一系の天皇が統治してきたなどとする虚構を流布してきた。今日に至るも、そんな無根拠な伝説を信じ込んでいる者が意外といるらしい。相手にはできない。
 マスメディアもこうしたインチキ民族主義を煽ってきた一面がある。欧米至上主義(選民思想、シオニズム)は日本の似非民族主義とウマが合う。どちらもインチキだし、海賊思考だ。日本人はアジア人だが、それがアジア蔑視している。非常に差別的である。愚かなこと限りない。朝鮮人、アイヌは我々の祖先だ。それを差別、蔑視してどうする?この話になると理性的思考ができなくなる一群の人が確かに存在する。
 ついでに言っておくが天皇が日本列島を現在の版図で支配した歴史はない。天皇の統治経験範囲は最大で近畿地方周辺までだ。
 明治政府自体も天皇主権とはしているものの実権は長州出身者などの海賊どもが握っていたのだろう。
 戦後も日本の支配層は基本的には変わっておらず、英米模倣も引き継がれ、海賊崇拝も続いている。まあ、それもじきに終わるが。
 従って現在も天皇代替わりを無視すれば未だに明治期にあるといえよう。
我々はこの海賊時代たる”明治時代”を終わらせねばならない。
 現代日本は未だ終末的海賊時代にあり、民主主義国家などではない。


マスコミ報道を恐れる行政

マスコミで叩かれたら大変という風潮。
2020年3月頃からはコロナキャンペーンが始まった。武漢での呼吸器感染症の群発報道が発端になった。中国内でのコロナは実態がよくわからないため、深堀できない。
 わかっているのは、中国武漢で新型コロナウイルスとされるものの遺伝子RNAの塩基配列解析がなされ、それが伝えらたことだ。その配列情報を基にプライマーと呼ばれる人工核酸断片が作られた。これによってPCR法でウイルス検出ができることになった。
 コロナウイルスは昔から哺乳類を宿主とするカゼウイルスであり、日本でもいくつかの抗原型が分類されていた。これらが周期的に感染の山を形成していた。国立感染症研究所も毎年コロナウイルス感染状況を公開していた。こちらは抗原型分類、つまりたんぱく質の立体構造分類である。(ウイルスとは少なくとも構造たんぱく質と核酸からなり、自己のみではたんぱく質への翻訳機能を持たないが宿主細胞内でのみで増殖が可能になる粒子体のことだ)しかし、武漢からの論文はRNAの塩基配列相同性での比較であった。なぜかSARS以降、抗原分類とは別の観点から分類されてしまったようで、抗原という観点からはどの分類に、この件のウイルスがあてはまるのか?
 コロナの虚構に関してはまた別の機会に論文を書くが、臨床症状としては一般のカゼと区別できないものである。それをことさら危険性を誇張して報道し、住民行動を過度に抑制し、結果として主にサービス業、金融業をつぶした。人々が外出する際には、あるいは屋内でもマスクを強要され異様な光景であった。そうしないとマスコミに叩かれるから怖いという。マスコミが叩く?マスコミは裁判所か?これのどこが民主主義なのか?司法は三権のうちのひとつであり分立している。は?マスコミが実体としては司法機関なのだからおかしな話である。
 マスコミをここまで増長させ、あたかも司法機関のごとく振舞わせたのも海賊の仕掛けである。マスコミに与えるべきは嘘プロパガンダ報道の自由ではない。脚色しない事実のみの報道義務とそれを侵し虚偽、歪曲報道を成した場合には罰則を科すべきである。

民主主義は統治者の抽象的な心得であり、主張すべき具体的制度ではない。

 国を、人民を治める者は人民本位の治世を成すべきであることは当然の心得である。支配者層の地位や組織維持のためであってはならない。民主を心得として為政者が内心にもつのは正しいだろうけど、これを宣伝文句に利用するのはナンセンスだ。抽象的に民主主義を軽く口にするならば、その者を信用してはならない。政見とは具体的方策を現実的に述べるものである。民主主義を言うのは自由だが、それを言うならば、民主主義とは何のことか、その定義を述べてから、それに沿った具体策を提示すべきだ。

発達した資本主義というものはなく盗賊化した独占資本が覇権を獲得したのが20世紀だった。
 現代に至る欧米民主主義は崩壊過程にあった資本主義が植民地主義化して延命される中で、そのカムフラージュ策として巧妙化したものだ。19世紀のロンドンはいつまでも永続的に工業生産をそこで拡大させていくことはできなかった。都市は労働者供給装置にはなり得なかったのだ。労働者を供給するのはあくまでも農村だ。農村は食料だけでなく人材供給装置なのだ。19世紀のイギリス限定資本主義は結局、アジア、アフリカを侵略し、労働者や資源を独り占めにしようとした。日本もこれを模倣した。欧米日は資本主義が発達したのではなく海賊化したのだ。植民地主義は20世紀には見かけを民主主義に繕い、本質はアジア、アフリカを傀儡支配した。
 日本も民主主義をどの集団もこぞって主張するところであるが、基本的にアジア、アフリカなどの途上国蔑視が土台となっている。アジア、アフリカを世銀、IMF体制を利用して貧しいまま途上国固定して低賃金による労働によって生産させて安く資源、製品を輸入し、欧米は豊かな消費生活を楽しむという構造を民主主義の成果だと喧伝したものだ。欧米日にはリベラルエリート支配層が成長した。彼らは表向き民主的なことを主張するのが得意だ。彼らがスマートな貴族生活をできているのはその基調にアジア、アフリカの貧しい労働者の搾取構造があるためだった。しかし彼らはそれを認識することを拒否したままだ。


逆転する民主

 欧米日と中露、イランなどの途上国の民主性は逆転しつつあるのかもしれない。民主は主義とつけるよりも民主度合いである。
 その国の予算が人民の生計のためにどれだけ使われているのかが重要な指標だろう。アメリカの債券や通貨を買い支えるなんて人民のためではない。アメリカの武器や農産物、ワクチンを押し売りされたり、米軍基地の維持経費を肩代わりするようでは民主からは程遠い。
 なんでもかんでもインフラ民営化を進めたこの国はすっかり税財源で人民の生活の便宜のために財政を行わなくなった。地方は過疎化し、ますます不便になった。独占資本主義による民営化は地方を枯渇させる。人口密度の低い地方では経営効率が悪い。赤字だから民営は撤退する。本当は赤字で結構なのだ。それが地方への投資だ。地方産業が元気になればいいのだが、独占資本主義はそれが気に入らない。地方保守は社会主義とウマが合う。
 私は他国の実情まではうまく書けないが、少なくとも日本の実情を見る限り、民主はどんどん後退している。事実を公言するには勇気がいる。インターネット上にはネトウヨと称することばで暴力、差別を拡散する一群の不良分子がいる。彼らがどこから収入を得ているのかは知らないが、どれも本来の右翼ではなく、英米軽信者である。
 近々、ウクライナの敗北が確定するだろう。日本のリベラル層はほとんどウクライナ支持者だ。異様だ。これがいずれは世論転換するはずなのだが、どう変遷するかは注目すべきだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?