流行りの3年弱遅れでゆるキャン△を見たオタクの感想

最後にアニメをリアルタイムで見たのはいつだっただろう。多分Charlotteとかそのへんだ。奥さんと一緒にハイキューを見たりはしているが、あれはシリーズがまだ終わっていないだけなので最後とは言い難い。アニメを見なくなった理由は色々あるだろうが、一番の理由は年齢を重ねて体力がなくなったんだと思う。深夜まで起きていられない。

その点、近年の配信サービスは実に良い。好きな時間に好きなデバイスで好きな作品を見ることができる。最初はNetflixでアニメとドラマを見た。その後はdアニメストアに移行してアニメだけ見ていた。だってドラマ、結婚できない男とかTRICKとかアットホームダッドを見終わったらほかに見るものないんだもん。

dアニメストアを導入してからも、結局見るのは過去に見たアニメだった。デジモンを見たり、遊戯王を見たり、CLANNADを見たり。米澤穂信ファンなので氷菓もヘビロテだ。あれは実に出来の良いアニメ化作品で、やはり京都アニメーションはすごいと思わされる。

そんな僕が、つい最近、というか3日ほど前から見始めて、見終わった新しいアニメがある。ゆるキャン△だ。

https://yurucamp.jp/first/

本放送は2018年の冬。もう3年近く前になる。本放送時、ゆるキャン△が流行っていたことは把握していた。そしてそれに対して「よくある日常系でしょ」「僕にはヤマノススメがあればそれでいいから」と思って見なかったことを覚えている。実際のところ、単に保守的になってしまっただけなんだと思うが。食わず嫌い、見ず嫌いというものは悪である。

見終わって僕は、ドハマリしていたことに気付いた。綺麗な世界観、登場人物が醸し出す小気味良いテンポ、僕の知らないキャンプという世界。そのすべてが、僕の心を鷲掴みにした。

元々僕は、この作品を「ただの日常系」だと思っていた。良く言えばまったりとした、悪く言えば中身のない日常がただひたすら流れていくんだろうなと。事実、ゆるキャン△のジャンルは大枠で言えば日常系で相違ないだろう。が、まったりとはしていても中身がないとは言い難いのがゆるキャン△だった。例えば、しまりんの立ち位置。「部活×女の子」系の日常アニメにおいて、主役級の人物がその部活に属さないということが、かつてあっただろうか。探せばあるかもしれない。しかし、自分にとっては初めての見るスタイルだった。主要な登場人物5人のうち、話の中心に来る(あるいは中心に設定しやすい)野外活動サークル、通称野クルに所属しているのは3人しかいない。2人は帰宅部なうえ、1人は主人公しまりんだ。そしてもう1人の主人公、なでしこがこの別々のグループを繋いでいく橋渡し的な存在として機能している。この橋のかけ方がまた上手なのだ。「大人しめなキャラクターを元気なキャラクターが巻き込んでいく」みたいな構図は萌えアニメのテンプレの1つであろう。実際、ゆるキャン△でも「大人しめなしまりん」と「元気ななでしこ」という2人が主人公となって話を展開していく。しかし、その内容は王道から少し外れる。「単独行動を楽しむしまりん」と「みんなで楽しむなでしこ」という構図で、必ずしも一緒にいるわけではない。一緒にいるわけではないのだけど、LINEのようなツールで遠くにいながらも会話したり、助け合ったりしている。現代的だ、この付かず離れずというか、絶妙な距離感が心地良い。もし、なでしこが無理矢理にでも他人をまきこんでいく性格の子だったら。もし、しまりんが他人は何があろうとも絶対に拒絶するタイプの子だったら。この距離感は生まれない。2人とも、心に余白のようなものを持っており「完全にこういうタイプ」ではなく「私はこういうタイプだけど、少しくらいなら踏み込まれてもいいし踏み込んでもいいよ」という、人物像なのである。

それが如実に現れているのが、第3話の麓キャンプ場のシーンだ。このシーンを細かく描写して感想を書いてもいいのだが、既にゆるキャン△視聴済みの人からすれば「ああ、あそこね」となるだろうし、未視聴の人はぜひ自分で見てほしいシーンである。だから簡潔に書くことにするが、このシーンこそがゆるキャン△の始まりのシーンであると僕は思う。このシーンでしまりんとなでしこがどういう態度を示すか。それによって、作品の目指すところが決まる。そしてその目的地設定が完璧だった。
少し話が逸れる。現代は多様性の時代であり、フィクションでさえそれは無視できない要素になっている。人には様々な価値観があり、それは守られるべきものだと。しかし、この話をするときに抜け落ちやすい視点があると思う。(※あくまで個人の意見ですよ) それは「多様性の尊重とは無条件すべてを受容すること、あるいはさせることではない」ということだ。あの人はこういう性格だから仕方ない。この人のやり方はこうだから勝手にさせておけ。自分はこうしたいからこうします。それは確かに多様性かもしれないが、尊重できているかどうかは疑問だ。そうではなく、あの人はこういう性格で自分はこういう性格だから、心地良い接し方を探しましょう。この人のやり方はこうで他の人のやり方はこうだから、お互いの良い部分を吸収しあってもっと良いやり方を探しましょう。こういうのが尊重ではないか。
話を戻そう。ゆるキャン△では、とりわけこの麓キャンプ場のシーンでは、多様性の尊重が見事に描かれていた。しまりんとなでしこの性格、趣味趣向、それに対する対応の仕方。すべてが完璧に描かれていた。それに気付いたとき、僕はもうゆるキャン△の虜になっていた。
あえて詳細を伏せた書き方をしてしまったので、視聴済みの兄貴達はともかく、未視聴の人たちにはうまく伝わらなかったかもしれない。まあそれは良しとしよう。どうせ何人も見るnoteではないから、自分の好きに書かせてもらう。

ちょっと小難しい話をしてしまったな。もっとシンプルに、わかりやすい魅力だってゆるキャン△にはある。
女の子がかわいい、作画が綺麗、音楽が良い、キャンプに興味を湧かせるストーリー、山梨に行ってみたいと思わせる地方都市感、キャンプ用品を買うためにバイトしているリアル感……。様々な要素が重なり合ってゆるキャン△の世界観は描かれている。それらの要素は互いが互いを引き立て合い、作品全体の完成度を格段に向上させている。実に良い作品だ。これほどまでに完成度の高い作品に出会ったためか、ここ数年くすぶっていたオタク心に火がついたことを感じる。

キャンプ、してみてえなあ。やったことないけど。キャンプ用品って一式揃えたらいくらくらいになるんだろう。自分の趣味のサイクリングと天体観測、これ絶対キャンプと相性バツグンだよなあ。こんなことを考えるくらいには、エネルギーをもらえる作品だった。

2期もやるそうだ。楽しみで仕方ない。というより、2期が決定していなかったら3年弱遅れでゆるキャン△ロスを味わうことになるところだった。危なかった。

以上、僕のオタクトークでした。


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