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continuity

 PCのファイルを整理していたら10年前に書いたコラムが出てきた。


 CMの企画を考える作業は、頭の中で行う作業である。ゆえに時間と場所を選ばず、頭の中で何を考えていても他人からは見えない。好きなことを考えることができる。それこそ口には出せないようなあんなことや、こんなことまで。それはそれで問題があるような気がしないでもないのだが、コンテを描く作業はそうはいかない。

 机と紙と鉛筆がないと描けない。科学的根拠はさっぱりわからないが、家や会社でひとりで作業をするよりも、たとえばファミレスや喫茶店などの周りに人がいる環境でする方が作業がはかどる気がする。そんな場所でコンテを描いていると(もちろん守秘義務に関わる部分は描かないが)周りからの視線を感じる時がある。大人が絵を描くという特異なものを見る視線である。

 気持ちは分かるが、コンテは漫画ではない。

 仕事を始めたばかりのある時期、自分の企画を面白くしようと努力し、コンテを漫画のように面白く描いてしまうミスを犯したことがある。だがそれは間違いだと気づいた。面白くない企画が面白く見えてしまうからだ。

 コンテは、人と「こんな映像になる」というイメージを共有するための設計図である。漫画はその紙自体が完成品である。コンテを漫画として描いてしまうと、役者には無理な表情が描けたり、ありえないレンズの構図が描けたりする。映像のリズムも違う。コンテは面白かったのに、映像になると面白くないというミスが簡単に発生する。

 ちなみに紙のコンテを見ながら、その先にある映像を理解する行為をコンテを読むと言う。映像にはマナーがあり、すべてのカットには意味がある。音階とコード進行がある楽譜みたいなものだ。それを読まなければならない。コンテの描き方、というものを教わったことはない。だから、そのミスに気づかなかった。

 僕は漫画家の影響を受けていた。心を躍らせたのは鳥山明氏や大友克洋氏といった巨匠たちだ。宮崎駿監督などの有名アニメーターのコンテも読んだ。アニメーションのコンテは、その絵自体が動くので、映像と漫画の間くらいの設計図だと思う。漫画家から影響を受けていたので、コンテを漫画として描いてしまったのだろう。

 コンテは面白い。

 コンテが好きなのだ。映像に向かうまでのスリルがある。どこまでも想像を広げられるスリルと、具体的可能性を探るスリル。そういえば大学時代に学んでいた建築も、実物よりも設計図や模型の方が好きだった。

 そのため、映像に定着させると不満が残る。他にも可能性があったのではないか、と考えてしまう。だが、そんなことを言っていては次には進めないので、それを延々と繰り返していくことになる。延々と。平日も休日も朝も夜も関係なく。

 今日も白紙のコンテが待っている。

 ああ、よかった。


 と書いて、10年が経った。あれからコンテを何千枚と描いたけれど、今も変わらずコンテが好きだ。

 ただ、僕のコンテはすこし歳をとった。

 正しいコンテ。間違えのないコンテ、が増えた気がする。違う。コンテにもインスピレーションがある。白紙に透けた方程式ではなく、インスピレーションが宿るように。

 そのためにコンテは真っ白の状態で待っている、と考えたい。明日も明後日も。



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