アラフィフ育児 ケース4「聞き取れない」 〜ただでさえ難解なムスメの言葉を、ノイズが激しい耳でなんとか聞き取ろうとするも挫折した話〜
45歳で第一子を授かった。47歳で第二子が誕生した。
そして今、池田テツヒロ、50歳。
目がかすみ、耳が遠くなり、人の名前がすぐに出なくなり、夜中にトイレに起きるし、お酒を飲むと疲れる始末。
上のムスメは5歳。下の娘は3歳。
ムスメが成長すると私が老いる。当然も当然の話。だけどああ、お願いだから、父をもっと労って、ムスメ達よ!
耳鳴りがひどいのである。
カーテンの隙間から射し込む光で眼を醒ます。
かすかに風が木々を揺する音がした。
寝たままに身体を捻り、窓をかすかに開く。そのわずかな隙間から、太陽の光を浴びた朝の風が、私の部屋に滑り込んでくる。
午前中の静寂。
ああ、なんてすがすがしい朝だろう。
って、そんな朝はもう10年以上経験していない。
今は起きたとたんに、ツーーーーーー!と高い音が耳の中で鳴り続けている。起きてから眠るまで、つねにこのツーーーーー!は私につきまとっていて、そのやかましさたるや、夏。夏の田舎。蝉時雨。ちなみに今も鳴っている。まったく夏だねー! いや、一年中こうなんだけどさ。
ドラマの撮影現場でこのような音がしていたら、録音部さんが「ちょっとお待ちください!」と撮影を中断させるほどの、つまり撮影に適さない騒音レベル。俳優が「今何待ち?」ってイライラしちゃうあのパターンである。(いや、そんなにイライラはしないけど)
そんな騒音が、私の耳の中で鳴り続けているのである。
高校時代に応援団長になり(させられ)、大声を出し続けたのがいけなかったのかしら?
大学に入って、演劇部でエキセントリックなキャラクターを演じ、叫びまくってたのがいけないのかしら?
ハンス・ジマーの音楽を大音量で流して、壮大な雰囲気に助けられながら執筆していたのがいけないのかしら?
それとも、トトロの咆哮なみのいびきが原因なのかしら?
思い当たる節はありすぎるのである。
しかし人間ってのは凄い。
このひどい耳鳴りも、次第に慣れてくるのである。
例えば、田舎の蝉時雨だって、朝に「うわ、うるさっ!」と思っても、昼すぎに「ガリガリ君うめえ!」とアイスに夢中になってしまえば、そのうるささを忘れてしまったあの少年時代……とかね。
それでも気になるのなら、耳にイヤホン入れてハワイアンでも流せば、耳鳴りも「あら波音?」と、いい具合になってハワイアンブリーズさえも感じてしまう余裕が生まれるのである。
なので、寝起きの朝と、ムスメたちが寝静まってから晩酌を始める深夜の静寂を我慢すればいいのだ。それでなんとか生きていけるのだ。
ただ、人の声が聞こえづらいのに関しては、とってもとっても困る。
ある時、撮影現場で先輩俳優から耳打ちされた。
「イケテツさあ、今日のケータリングさあ………って…………じゃねえんだからよお」
肝心なところが聞き取れない。
「はい?」
ってダメダメダメ! 耳打ちなんだから、周囲に聞こえてはならない秘め事なんだから「はい?」って聞き返しちゃダメ! 絶対!
「もういいよ」
「すみません……」
(チッ)
先輩に舌打ちされる私です。
後日再び、飲み屋で先輩に耳打ちされる私。
「あの人、見てみ? ……………(ボソ)………(ボソ)…………みたいだろ?」
「はい?」
「いやだから……………(ボソ)………(ボソ)…………みたいだろ?」
面白い事を仰っているはずなのだが、哀しいかな、全く聞き取れないのだ。
「すみません、全く聞こえません」
「もういいわ……」
いや、伝えた。耳が悪いことはちゃんと伝えた。しかし先輩に、年下俳優である私の耳の具合を労っていただくなんて、おこがましい。これ以上のお願いはできない。したところで労ってはいただけない。なのでこちらがなんとかするしかない。
「あははは! マジですか!」
私は聞こえたふりでやり過ごす作戦を取った。
「今、聞こえなかっただろ?」
おもいっきりバレた。
「すみませんっ!」
「もういいわ……」
漫才の終わりのような会話だが、背筋の冷や汗が止まらないのである。
別のある日
ドラマの顔合わせで、先輩女優さんに話しかけられた。
10年ぶりの共演で嬉しくなった私、女優さんに駆け寄ってご挨拶。女優さんも笑顔で答えてくださった。
「…………………………」
(……え?)笑顔が引きつる私。(く、くちパク?)
それほどに聞こえない。女優さんの美しいはずのお声が、私には全く聞こえないのである!
「コ……………ヨ………」
そんなに小声ではない事は、話している雰囲気でわかる。
「………………ッサ……」
その女優さんが発する声のオクターブが、私の耳鳴りのオクターブとぴったり重なってしまったのだろうか? その方の声だけピンポイントで全く聞こえない。
「ほんとですかあ、よろしくお願いします!」
もう、ほんっとに適当な返事をして、私は会話を切り上げた。
恐ろしい体験だった。旧約聖書のバベルの塔での言葉の混乱が、ここ湾岸スタジオで再現されたというのかっ!(大げさ)
結果私は、ドラマ撮影期間、その女優さんとの会話全てを、笑顔と相づちで逃げ切ったのである。(たぶん逃げられてはいない)
原因はなんだろうと、耳鼻科で診てもらった。
診察結果は「老化です」だった。マジで?
「な、治りますか?」
「治療方法はありません。老化なので」
との事。
マジで? 治らないんすか!
そんなワケない。この世界のどこかに、この耳鳴りを治せる人がいるはずだ。私はパソコンで『耳鼻科 ゴッドハンド』と検索した。そしてゴッドハンドの名医に診てもらった。
診察結果はまたしても「老化です」だった。マジで? 治らないんすか!
ここで負けてたまるか。
人生100年時代。あと50年をこの耳鳴りとつきあっていくのはイヤだ! 東京で聞くハワイアンブリーズは、単なる雑音でしかないのだ! 誰か止めてよ、この雑音! 慣れたなんて、やっぱり強がりでしかないのさ!
それからの私のあがきは以下の通り……。
耳鳴りに効く漢方を飲んでみた。
鍼灸で耳に針をうった。
首回りのコリが原因では? と名トレーナーのところに通った。
ストレッチジムにも通った。
なのに……ないないないない、治らないっ!
そう、なぜなら、老化だから!!!
これから死ぬまで、この「ツーーーー」とつきあっていくしかないのだ。
ああ、老後はハワイに住みたい。
あそこでならこの耳鳴りを、ハワイアンブリーズだと、自分に思い込ませることも可能に違いないから! ただいかんせん! 今はまだ老後ではないっ! 3歳と5歳のムスメを絶賛育児中の中年なのだ!
で、ようやく本題。
舌っ足らずな幼児の言葉を聞き取るのは、耳の状態関係なく難しい。
これは最近の話だが、「すもうローションでとって」と言われたので「ん?」と聞き返すと、「すもうローションでとって!」とまったく同じ事を言われたので、聞き返すのをやめて推理してみた。
ローションを塗った身体で相撲をとる。そんなバブル期のお色気バラエティ番組のプロデューサーのような指示を、5歳のムスメがするわけない。
ではなんだ?
ムスメは妻のスマホを手にして訴えている。そうか……。
ムスメは最近TicTokにハマっている。自分で撮影して勝手にアップしたりする。つまり立派なチビTicTokerなのだが、そのムスメが「とって」と訴えている。ほうほう、なるほど……。
ようやく謎は解けた。
そう、スローモーション撮影をしろと言っているのだ。
「はいはい」と(返事は一回!)、私はムスメの手からスマホを受け取り、撮影をするのだ。
この程度の謎は日常茶飯事。過去の話は全て「きのうねー」と言うし、りんごジュースの事を「インゴブーブー」と謎のスラングで表現する彼女たちなのだ。必然、推理力は鍛えられる。
だが……それだけでは補えない聴力の低下。
朝、幼稚園に自転車で送る道すがら、前の座席に座る3歳のムスメが「あのねーきのうねー」と喋るのだが、風に邪魔され、まったく聞き取れない。
仕方なく、自転車を止めてムスメの声に耳を傾ける。
「あのねーきのうねー……………ムサエニとねー………しゅてねー…………」
「え?」
聞こえないのだ、もう、言葉通り、ムスメの口元に耳を持っていき、なんとか理解しようとつとめる。
「あのねーきのうねー……………ムサネニとねー………しゅてねー…………」
ダメだ、声が小さい。聞こえない。
「ごめんもう一回言って?」
「あのねーきのうねー……………サリエリとねー………しゅてねー…………」
あああ、幼稚園に遅刻する。その焦りもあって私は聞き取るのをあきらめて、適当に声をかける。
「へええ、そっかー」
ああ! 悪手! 最低! 親失格!
純粋な子供相手に、絶対に『聞き流し』をしてはいけない、そんなこたあ、わかっている。だけど遅刻はもっとダメ! 駐輪場が激混みで遅れると年中組の邪魔になるから! 急がないとダメなの!
(しかしまあ、日本の駐輪場戦争に関してはもう、うんざりしますよね。あの上と下に段差があるヤツとか、入れたら最後、知恵の輪みたいにからまって、力尽くで出すしかなくて、腰痛めるし、勢いつけて下がってきた車体は危険だし、ペダルで弁慶の泣き所を強打して「ヅ!」とうずくまるし。ならばこれはどうよとばかりに現れた、ラックが左右にゆるーりと動いて、自転車を入れるスペースを確保できるタイプも、ゆるーん、つるーんと動きすぎて「ああもう、女殺し油地獄か!」と思うほど言う事聞かないしで、やはり腰悪くして、うんざりなんです。ああ、この仁義なき駐輪場問題は今度ゆっくり書かせてください!)
話は戻ります。
「へええ、そっかー」
と聞き流されたムスメが、押し黙っている。
自転車をこぐ私からは、後頭部しか見えないが、無念と憤りが、ひしひしと伝わってくる。
もう一度言う、親失格!
うーんこりゃあ、どげんかせんといかんな!
宮崎県都城方面の方言を使ってまで、決意する私。
今まで、先輩の耳打ちが聞こえなくても「まあ、しかたなし」とあきらめていた私が! 美しく気高い先輩女優さんのお言葉がまったく理解できなくても「どうせ俺になんて興味ないだろうし」と自嘲していた私が!
齢50にして老いにあらがおうと決意するのである!
もしくはハワイに住みたいのである!
一番いいのは、耳鳴り治してハワイへGO! なのである!
ああ、ハワイに行きたいなあ。(そんなシメ?)
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