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言語論的転回|ソシュール【君のための哲学#24】

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☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。



言語の恣意性


今の我々には信じられないことかもしれないが、近代以前の世界では「事物にはそれに対をなす名称目録カタログがある」という言語名称目録観が信じられていた。🍎に「りんご」と名がつくのは必然的なことであり、言葉は世界を端的に表現しているツールである。このような考えは、特に神の力が絶大だった中世ヨーロッパにおいて、広く普及していたのだ。
そんな言語名称目録観を完全に退けたのがフェルディナン・ド・ソシュール(1857年-1913年)である。
彼はまず、それまでの言語学における常識に疑問を投げかけた。それまでの言語学では、歴史的な言語の変化が研究されていた。しかし、その方法では言語の本質を掴むことができない。言語の本質を掴むためには、言語単体の変化ではなく、言語と人間の関係性から考えなくてはならない。このようにして彼は、言語と人間の関係、または言語という構造自体の性質を追求したのだ。
ソシュールは、人間にはランガージュという普遍的な言語能力があると考えた。ランガージュがあるから、人間は言語を運用することができる。
ランガージュによって、個々の記号の意味領域などをめぐる規則が制度化されたものがラングである。これは簡単に「言語のシステム・ルール」と表現して良いだろう。そして、ラングを参照して発話行為(パロール)が行われる。
また、ソシュールは「ある物事を表す言葉そのもの」をシニフィアンと呼んだ。一方で、シニフィアンを耳にした(見た)際に想起されるイメージのことをシニフィエと呼ぶ。そして、彼はシニフィアンとシニフィエの間には必然的な関係がないと考えた(言語の恣意性)。
この主張は明らかに言語名称目録観に反している。ソシュールによれば、言語とは人間の、もっといえばそれぞれの共同体に属する人間の営みの結果生まれる、数多あるルールの一つなのだ。それは決して事物に備わったカタログ的な名称ではない。


君のための「言語論的転回」


ソシュールは何が言いたかったのか。もう少し噛み砕いて考えてみよう。
例えば、日本に住む人々の多くは虹を七色だと認識している。それに対応する色は「赤・橙・黃・緑・青・藍 ・紫」である。しかし、インドネシアでは虹を「赤・黄・緑・青」の四色であると認識するらしい。この差は「該当する色が見えていない」ことを意味しない。厳密には「認識のための区切り方が違う」すなわち「世界を表現する言語が違う」ことに起因する差なのである。
私たちは虹をあきらかに七色だと思っている。だから「虹は四色だ」という意見には眉をひそめてしまうだろう。しかし、果たして本当に虹は七色なのだろうか。例えば橙色の領域には「赤っぽい橙色」や「黄色っぽい橙色」がある。仮に両者に名前がついていたとしたら、虹は八色あるという認識にならないだろうか。
それまでの言語学では、世界が言語を作ると考えられていた。虹という概念がある。虹には色がある。色にそのまま名前をつけると虹は七つの色に区切られ、実際に虹は七色である。
ソシュールはこの主張を否定する。彼は言語が世界を作ると考えた。「空」とされている空間に「虹」と規定できる存在がある。「空」という集合の一部を「虹」と規定することもしないことも、本来は自由である。「虹」を「空」と表現しても別に問題はない。私たちはそれを「虹」と呼ぶことによって、「空」から「虹」を分離して認識している。色に関しても同じである。「虹」という集合を言語によって何種類に切り分けるか。それは自由である。私たちはたまたま「虹」を「七色」に切り分け、言語で表現した。そして、因果関係を転倒させて「虹は最初から七色である」というような解釈をしている。
言葉と意味は、最初からセットになっているのではない。言葉は共同体のルールによって空間を切り取った結果である。私たちは言葉によって世界を区切り、その区切りを見ることで世界を認識している。すなわち言語が世界を作っている。
ソシュールのこの主張は言語論的転回と呼ばれている。
私たちは、自分が見ている世界が絶対に正しいと思っている。同時に、他者が見ている世界も自分と全く同じものだと感じている。しかし本当にそうだろうか。言語が世界を構築するのであれば、語彙の量や言語感覚の違いによって、それぞれの見ている世界は違っているはずである。
ソシュールにおける言語論的転回は、他者が見ている世界に対する想像力を想起させる、とても重要な指摘なのかもしれない。


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