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『季節は次々死んでいく|amazarashi』

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こんにちは。哲学チャンネルです。

定期的に(気まぐれに)曲の歌詞を中心とした解釈記事的なものを書いてます。

過去にはこんなものとか。


そういえばメインチャンネルでもやったな。


で、こういうコンテンツを公開すると、わりと高い確率でamazarashiもいいっすよ!」というレスポンスをいただくのですね。

いや、amazarashiが良いことは私が一番知っている!!しかし、解釈が難しすぎるのだ!!

ということで、amazarashiの曲についての記事を書きたいなと思いつつ、ずっと尻込みをしていたわけでございます。

今回は勇気を出して彼らの1stシングルである『季節は次々死んでいく』について解釈したいと思います。非常に難しい歌ですが、たぶんテーマは「時間」です。

歌詞を追いながら、この歌が何を伝えようとしているのか考えてみましょう。



季節は次々死んでいく
絶命の声が風になる
色めく街の 酔えない男
月を見上げるのはここじゃ無粋

季節は次々死んでいく|amazarashi

季節が移り変わることを「季節が死ぬ」と表現しているように見えます。夏が終わり、秋がやってくるとき、それは夏の死を意味するのだと。そして、季節が死ぬときの断末魔が風となって、次の季節の到来を予感させる。

つぎに、スケールの大きな季節の死の話から、急に視点は一人の男に移ります。壮大な世界という仕掛けの中に人はそれぞれ生きているという事実が、このピントの動かし方のみで綺麗に表現されていますね。

更に「月を見上げる」という、もう一度広い世界のニュアンスが現れますが、これを「無粋」だと否定しています。

私たち個々人は「季節の死」という重大かつ壮大な世界の物語を、それがそこにあるのにも関わらず、見ていない(見る余裕がない)のかもしれません。



泥に足もつれる生活に
雨はアルコールの味がした
アパシーな目で彷徨う街で
挙動不審のイノセント 駅前にて

季節は次々死んでいく|amazarashi

「アパシー」とは、これまで当たり前にできていたことができなくなってしまう、無気力・無関心な状態を指す言葉です。認知症やうつ病の症状としても知られていますね。例えば、今まで何も考えずにお風呂に入れていたのに、うつ病になってからお風呂に入ることすらできなくなる。みたいな。

「月を見上げる」ことが「無粋」だと思っている「僕」は、何らかの理由で世界に対して無関心になり、その状態で何とか生きている。

周りから見たら、それは挙動不審ではあるものの、同時にイノセントであるとも言っています。ここで「innocent」をどう捉えるかが難しいのですが「無実の」「素朴な」「おめでたい」などの意味よりも、私は「子供っぽい」という意味を当てはめるのが適切ではないかと思っています。

「僕」は、子供のように、世界に対する向き合い方がわからない状態で生きていて、おそらくそんな生を苦しみとして捉えている。



僕が僕と呼ぶには不確かな
半透明の影が生きている風だ
雨に歌えば 雲は割れるか
賑やかな夏の干涸びた生命だ

季節は次々死んでいく|amazarashi

ここでまた「風」の文脈に戻ってきます。
ここまで「世界」と「僕」は断絶された概念として語られてきましたが、ここでは「世界=季節=風」と「僕=影=風」はある意味本質的には同じものだという示唆があります。物理主義的に捉えてしまうと味気がないですが、世界も「僕」も物理運動の一環なのであり、そこには明確な量的な違いはあるものの、本質的な質的違いはない。そう言っているようにも解釈できますね。

しかし、ここで疑問が投げかけられます。

「雨に歌えば雲は割れるか」

つまり、世界と僕が繋がっているのであれば、僕が世界に働きかけることで世界は何らかの反応を示してくれるのだろうか、という問いですね。そして、その帰結として「賑やかな夏の干涸びた生命だ」とあります。かなり間接的な表現ですが、直感としては、前段の疑問に対する否定の答えであるように感じます。「僕」が世界に働きかけても「干涸びた生命」である僕の声は世界に届かない。やはり世界と僕は断絶している。世界との断絶による絶望は、この歌のサビのメッセージに繋がっていきます。



拝啓 忌まわしき過去に告ぐ 絶縁の詩
最低な日々の 最悪な夢の
残骸を捨てては行けず
ここで息絶えようと

後世 花は咲き君に伝う 変遷の詩
苦悩に塗れて 嘆き悲しみ
それでも途絶えぬ歌に
陽は射さずとも

季節は次々死んでいく|amazarashi

忌まわしい過去に対する、最低な日々に対する、最悪な夢に対する、絶縁の歌。そして、「僕」を包んでくれない「世界」に対する絶縁の歌。
忌まわしい過去にも、最低な日々にも、最悪な意味にも、「世界」に対しても。それら「だけ」と絶縁することはできません。だから、それらと絶縁するためには「僕」が消えなければならない。そして「僕」はその決心をする。

しかし、仮に「僕」がこの世界から消えたとき、「僕」という何かは後世に「変遷」しながら残るのかもしれない。「僕」は「僕」という存在を消すことで、初めて「世界」とつながることができるのかもしれない。それはもしかしたら、季節の断末魔である「風」としてなのかもしれない。



明日は次々死んでいく
急いても追いつけず過去になる
生き急げ僕ら 灯る火はせつな
生きる意味などは後からつく

季節は次々死んでいく|amazarashi

場面が変わります。この言葉を発しているのが、先ほどまでの「僕」であるかはわからないですね。感覚的には「僕」とは違う誰かであるように思いますし、または「忌まわしき過去と決別した僕」であるとも考えられます。
季節同様、「その日」は次々に消滅していきます。その時の流れは無慈悲で、待ってといっても待ってくれるはずがありません。私たちはそんな無慈悲な時の流れを生きているわけです。人生というのは時間とのかけっこなのかもしれません。だからこそ、私たちは何よりもまず走ることを求められ、走りながら、何とか生きる意味を追い求めるのでしょう。



君が君でいるには不確かな
不安定な自我が 君を嫌おうと
せめて歌えば闇は晴れるか
根腐れた夢に預かった命だ

季節は次々死んでいく|amazarashi

私たちは自我を持っています。(いるはずです)時間経過とともに私は変化していきます。それを連続した私であると定義するのが自我であるわけですが、その定義は非常に曖昧なものです。私たちは自我があるから自分という存在を境界線で括ることができていますが、その実、その境界線はとても恣意的で不安定なものなのです。それでも、私の中に命があることは確かです。自我というものはイマイチよくわからないけれども、ここに命があることは確実であって、もしかしたら信じられるのはそれだけかもしれない。



疲れた顔に足を引きずって
照り返す夕日に顔をしかめて
行こうか 戻ろうか 悩みはするけど
しばらくすれば 歩き出す背中
そうだ 行かねばならぬ
何はなくとも生きて行くのだ
僕らは どうせ拾った命だ
ここに置いていくよ なけなしの

季節は次々死んでいく|amazarashi

私たちは、人生でいろいろな苦痛に出会います。そのたびに打ちひしがれ、挫折し、先のことについて悩みます。しかし、多くの場合、時間とともにその絶望は薄れ、必然的に前に進み出します。前述の通り、それが時間と人生の関係だからです。私たちはどうせ前に走り続けるしかない生き物なのです。それが終わるのは、命がなくなった時だけです。(少なくとも自我にとっては)死を繰り返す自然の中で、偶然生まれた命である私たちは、理由もなく生きているのと同時に、「理由もなく生きる」という理由を持って生きていかざるを得ないのです。



拝啓 今は亡き過去を想う望郷の詩
最低な日々が 最悪な夢が
始まりだったと思えば 随分遠くだ
どうせ花は散り 輪廻の輪に還る命
苦悩にまみれて 嘆き悲しみ
それでも途絶えぬ歌に
陽は射さずとも

季節は次々死んでいく|amazarashi

時間の流れはどこまでも残酷です。過去は常に私たちから遠ざかり、最期は常に私たちに近づいています。人間は、この理から離脱することはできません。でもそれは、どんな最低な日だって、時間とともに遠ざかっていくことの裏返しでもあります。私たちは、慌ただしく流れる時間の中に生きており、そのために走ることを強要されている。それは多くの場合苦しいことで、そこに人間の悩みが集約されているように思います。しかし、そこから脱却することができない以上「それはそういうものである」と認めるしかありません。それを認めた上で、たまたまここに現れた命を、時がたてば自然に還ってしまう命を持って、走り続ける必要があるのです。これは、ニーチェの超人思想にも通ずるメッセージですね。



この歌は最後にこう締め括られます。

季節は次々生き返る

季節は次々死んでいく|amazarashi

この一節はまさに、超人思想的なアウフヘーベンを表しているのではないでしょうか。重要なのは「季節は次々生まれる」のではなく「生き返る」ことです。夏は、毎年死に絶え、毎年生き返ります。そして、これは季節特有の性質ではなく、全てのことに当てはまる真理なのではないでしょうか。たしかに、自我という意味で、私たちは終わりある存在といえるでしょう。しかし、世界を俯瞰して捉えればそれもまた繰り返しの物語の一節に過ぎない。永遠とも思える時間を繰り返す輪廻に、自我をどのように向き合わせるか。歌の冒頭で「僕」は諦め、時間の強制力から逃れることで自我と折り合いをつけようとしていましたが、歌が進むにつれその諦めは、それでも生き続けるという積極的な諦めに変化していきました。

結果として季節に対する感覚が「死んでいく」から「生き返る」に変化したと。この変化は主体(この歌に明確な主体があればの話ですが)の生きる意志の変化とリンクしているのです。

時間は無慈悲に流れ続け、私たちはその時間に強制されるが如く、毎日を走っています。端的に、そんな毎日は虚無です。けれども、重要なのは「だからどうするか」です。どちらにせよ虚無なのであれば、とことんその虚無と付き合ってやろうじゃないか。どうせいつかは「僕」も永遠に繰り返される「風」になるのだから、どうせ拾った命、これが終わるまで何はなくとも走ってやろうじゃないか。この歌からは、そんな強いメッセージが感じられます。


ちなみに、本作はアニメ『東京喰種 トーキョーグール√A』のエンディングテーマとして発表されました。

ご存知の方も多いと思いますが、このアニメでは「人の肉を食べないと生きられない存在」になってしまった主人公の葛藤が描かれます。
MVでは、その葛藤(というか、人間も本質的には動物であるというテーゼ)がとても鮮烈に描かれています。ぜひご覧になってみてください。

そういう意味ではこの曲は、「食物連鎖としての命の輪廻」が表現された曲だと捉えることもできますが、個人的には「時間の残酷さ」とそれによる「人生の虚無」。そして、その虚無感に対する積極的な諦めと運命愛が描かれているように感じます。

少し長くなってしまいました。もし、他の解釈や感想やご意見などありましたら、ぜひコメントください!

そろそろ夏が「死に」ますね。
私も「生き返る」秋を、しょうがないながら走っていきたいと思います。

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