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時間を忘れる【エッセイ】


ウィスキーを飲むということは、歴史を飲むということ。今目の前にあるその味は、ウィスキーがウィスキーとして成立するために必要だった「時間」を内包している。ウイスキーを飲んでいるとき、私は時間を飲んでいる。

私は時間を飲んでいるような気がしている。だが果たして、今飲んでいる「時間」とはなんだろうか。

時間は流動的なものだ。それは絶対的な事実のように思える。"今"を捕まえることはできない。"今"を概念として同定しようとした瞬間に、"それ"はもはや"今"ではない。

しかし、ウィスキーの味には時間が封じ込められている気がする。その静止した時間はどこからやって来るのか。あるいは、静止した時間という矛盾は、何を根源に今私の前に立ち上がっているのか。

人は概念を一つの場所にまとめ上げ、それをあたかも固有名詞を扱うような仕方で愛憎する。神も国家も家族も、概念の固有名詞化なしには存在しえない。

私は「時間」という無形で止まることのない概念を、ウィスキーという器を以って固有名詞化し、感覚として吸収する。

そのとき時間は自身の制約を破壊し、静止した廃棄物として陳腐な肉体に吸収される。

肉体はその誤謬に歓喜し、喜びの渦の中でアプリオリな絶対的認識形式を超越する。

それが「時間を忘れる」ということであり、体内に吸収された時間の内的拘束力による外部の時間からの疎外である。

その瞬間、私は"今"という幻想を擬似的に経験するのだ。

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