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哲学を学ぶことに意味はあるのか?



こんにちは。哲学チャンネルです。


私は哲学が好きです。

で、普段やたらめったら「哲学が好き」と吹聴して回ることはないものの、たまたまそういう話題になったときに「哲学が好き」と意思表示することがあります。

そういうときに低確率で返ってくる質問

「哲学を学んで何か意味があるの?」
「哲学って難しいことをこねくり回しているだけなんじゃないの?」

今回はそんな質問に対して個人的に思うことを書いてみようと思います。

あくまでも個人的意見だということを留意していただいた上で楽しんでいただけたら幸いです!


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哲学者はときに感覚的に当たり前のことを非常に難しく回り道をして証明しようとします。

例えば目の前にあるものは確かに存在しているということに関しても、哲学の世界では議論され尽くされているトピックなのですが、これを哲学に馴染みがない人が見たら「何やっとんねん。そりゃ目の前にあるものはあるでしょうよ。」と思ってしまうわけです。そして、この感覚は至極普通のものだと思います。

特に形而上学的な問い(神の存在・存在概念・世界や時間の概念)に関しては、その性質上どうやっても難しいことをこねくり回さずにはいられないため、そのイメージが哲学という単語に定着し「やたら難しいにも関わらず(特に明確な解決を見ない)意味のない営み」的な印象を与えてしまうのだと思います。


つまり哲学に抵抗がある方には

①哲学は難しいことをやっているという印象
②それが明確な答えを与えてくれないという印象(人生にとって役に立たないという印象)

この二つが内在しているのだと思います。

まず大前提として①の「哲学は難しいことをやっているという印象」は正しいです。実際、哲学という学問で試みられていることは非常に難しいです。
本当にそれらを自らのものとして研究したり議論したりできる人は全人口の0.1%に満たないでしょう。もちろん、私もそこに含まれません。
私なぞは、哲学の表層的な部分をなぞり、それを「哲学っぽく」考察して悦に浸っている存在ですから。

だから「哲学が難しい」のは間違いない。

しかしだからこそ、哲学には価値があります。
難しいこと、もう少し厳密にいうと、通常の言語運用では語り尽くせないことを哲学者たちはそれでも語ろうとします。語っちゃいけないと言った人もいましたが、それでも人間の探究心はそれを辞めません。

そしてその壁を乗り越えるために、様々な方法が開発されました。
私たちがなんとなしに使っている科学的思考や問題に対する解決法は、先天的に人間に備わっているものではなく、連綿と受け継がれる哲学の営みによって開発されたものであるケースも数多くあります。

だから哲学が無用なんてことはあり得ない。

多分これが哲学の営みを擁護する代表的な意見でしょう。


とはいえ、そんなことを言われても実感としては納得できない。

なので今回は「哲学は人生の役に立たない」ということに対して、徹底して私個人の実感にフォーカスをして、実際に哲学が人生の役に立った実例を挙げたいと思います。

役に立つという言葉は非常に曖昧なものです。

そもそもそれは相対的なものであり、誰かにとって役に立つものが、他の誰かにとっては役に立たない例など、いくらでも挙げられます。
だから「こういう理由で役に立つでしょ?」という提示はどこまで行っても「それってあなたの感想ですよね」が成立してしまうため『哲学が万人にとって役に立つ』ということを明示するのは意外と難しいことです。

ですから今回は私にとって哲学は役に立ったことを提示し哲学は少なくとも誰かの役に立つという命題を証明したいと思います。


・・・


私が自分の人生についてちゃんと考えたのは25歳のときでした。

大袈裟ではなく、それまでの25年はほとんど何も考えていませんでした。
何も考えなくてもなんとなく生きられるって知ってました?まさに、私のそれまでの人生はそのようなものだったのです。

詳細は省きますが、25歳のときに私は精神ストレスを起因とする病気になり、数週間の入院を余儀なくされました。

そしてその入院生活の中で初めて人生について真剣に考え、それまで勤めていた会社を退職することにしたのです。

入院生活中の思索の中で一つ明確な答えが見つかりました。それは「自分はいわゆる一般的な社会には属せない」ということです。
私は高校卒業後、一年専門学校に行き、そこから社会人として働き出しました。それから約6年、違和感を感じながら仕事をしていたのですが、その違和感は根本からの社会への不適合だったのです。

だから、会社を退職したのち、他の会社に就職をすることは考えられず、結果的にフリーランスとして生きていくことを決心します。

紆余曲折に関しては大幅に飛ばします。
それから10年ちょっと、結局そのままフリーランスみたいな生き方をして、なんとか食べてこれています。

当然、事業が大成功してお金持ちになったわけでもなく、やるべき仕事をやるべきだけやると食っていけるような生活、大体はそんな環境に置かれています。そして、その環境をとても幸せに感じているし、むしろそうなりたいと思ってそうなったきらいがあります。


『哲学チャンネル』としてこれを書くのは憚られますが、25歳のときの私は、もちろんそれまでに幾つかの哲学書に触れてはいたものの、それが自分の人生に影響を与えるとは思っていませんでしたし、きっと哲学からの影響はほとんどなかったと思います。

私が哲学書を狂ったように読み漁るようになるのは、25歳を過ぎてからでした。

さらに言えば、25歳を過ぎてから、哲学書を大量に読み漁り、そこで得た様々な知見が人生の選択において何か大きな影響を与えたのかと考えると、そういうわけでもなかったように思います。

どちらかというと、人生においての選択は、あくまでも感覚的に自分の感性に則って行われたように感じています。


では結局、それだけ哲学書を読んでも人生の役に立っていないではないか?となりそうなのですが、それがそんなこともないんですよね。

むしろ今の私があるのは哲学のおかげであると、そう断言できます。


結論から書くと、私にとって哲学は『人生の肯定』として作用しました。

私は元来、誰かに指示されること、またその指示に従うことを極端に嫌う性質を持っていました。また、マジョリティが全体的に何かに対して同じ方向を向いているとき、必ず逆方向を向きたくなる(向かざるを得ない)天邪鬼な性質も持っています。

当然、そんな性質の人間が一般社会で上手にやれるはずがありません。
(厳密にいえば、それでも上手にはやっていたのだと思います。が、その代償は大きかった・・・)

そんな自分なので、会社を退職した際に、独立して大成功するという目標は全く想像しませんでした。いわゆる一般的な大成功とは、独立後の社会性の再獲得です。社会性から逃げ出した私にとって、社会性の再獲得である大成功は忌避すべき存在だったのです。

だから、大成功とも大失敗とも言えない、雇われるでも雇うでもない、非常に宙ぶらりんな状態をキープしながら10年以上生きています。

しかし世の中を走っているのは資本主義です。
資本主義は生産性を我々に課し、生産的でないものを排除します。
一応そういったビジネスの世界で生きている以上、外に吹き荒れているその風を肌感覚では感じるわけで、その常識と自分の信念のずれに対して一抹の不安と悩みを抱えることもあったのです。

平たく言えば「自分は本当にこのままで良いのか?」


私は多分、この悩みを放置していたらダメになっていたと思います。


でも、そんなときに近くに哲学がありました。


例えばマルクスは私の仕事観を肯定してくれます。

彼は資本主義、ひいては現代社会を構造を労働に見ました。
資本家と労働者という二項対立において、労働者は余剰の労働力を搾取され、搾取したものを資本家は資本として蓄えます。
マルクスはこのシステムにそもそもの問題があると考え、根本的なシステムの変更の必要性を主張したのでした。
しかし資本主義の力はあまりに強大で、その試みは現時点ではうまく行っていません。それはすなわちシステムの中で生きざるをえないということを表しています。
そこでシステムの中での搾取から逃れるためには労働者という属性を抜け出さないといけません。その試みが成功すればはれて資本家にクラスチェンジすることができ、膨大な富を蓄積できるかもしれません。でもそれは搾取がなくなったわけではなく、搾取する側に回ったというだけのことです。

多分私の中には感覚的に労働者と資本家のそのどちらにも属したくないという信念があったのだと思います。
もちろんビジネスである以上、何かしらの搾取傾向はあるのでしょうが、そのシステムの中でできるだけそういった要素から離れたいという衝動があります。

一般的にこれは資本主義というレースからの逃げだと認識されるわけですが、マルクスはこれを肯定してくれました。


例えばドゥルーズは私の宙ぶらりんな人生を肯定してくれます。

彼のノマドの概念は私の生き方とリンクする部分が非常に多いのです。
彼は同一性と差異という二項対立において、同一性の圧倒的優位性を転倒させた人物だと(勝手に)解釈しています。
実は差異の方が同一性よりも先にあって、同一性は差異の動きの中で二次的に観念化されるものに過ぎない。
この思想は社会や組織や家族という、絶対的なものの重要性を少しだけ弱めます。
全体性から逃走線をひいて、そこから抜け出す動きをすること。
ドゥルーズはそれを重要視するのです。

自分の人生をリゾーム的に、または非意味的切断を前提に構築していく。
そのような生き方はときに孤独であり、理解されないこともあり、変人だと揶揄されることもあります。
私はそのような揶揄(もう慣れましたけど)を数えきれないほど受けてきました。その不安をドゥルーズは肯定してくれます。



例えばラカンは私の欲求観を肯定してくれます。

彼は人には際限のない欲求があると言いました。
人は最初母親的な存在との絆を自覚します。その後、その母親的な存在との訣別という経験をして、とてつもなく大きな喪失感を経験します。
人はある意味原初に失ったその大きな喪失感を埋めるために、代替品としての何かを求め続ける欠如した存在である。
ラカンはこの追い求める何かを対象aと表現しました。
人は対象aを追い求めますが、それはどこまでいっても代用品でしかなく、本来の欠如を埋めることはありません。だからこそ、欲求には際限がない。

私は多分どこかで何かを諦めました。
そしてその諦めは決してネガティブな性質のものではなく、むしろ前向きな(人生を肯定するような)諦めだったのだと思っています。それによって際限のない(もちろん私にもそれはある)欲求にある意味蓋をして、段々と妥協することが上手になりました。

しかし、資本主義はそれを許しません。
資本主義は需要が増え続けることを要請します。つまり欲望が増え続けることをその仕組みに織り込んでいるのです。だから、欲望に対して妥協するというのは資本主義的な観点からみると「逃げ」だと断罪されることもあるのです。

私などは独立をしているくせに上昇志向がない人間ですから、資本主義から見たらノイズ以外の何者でもないのでしょう。
そんな私をラカンは肯定してくれます。



例えばストア派の哲学者たちは私の冷淡さを肯定してくれます。

私は根本的に決定論者チックなところがありまして、起きうることは起きるし、それらは基本しょうがないで片付けたほうが良いことなのだと思っています。しかし、この姿勢がときに冷淡であると受け取られることがある。
または厭世的だと認識されることもある。

しかしストア派の哲学では、それをポジティブに捉えます。
世界は決定論的に描かれるけれども、それを生きる主体の感覚には自由が備わっている。だからその主体は決定論的な世界観を受け止め、それをポジティブに解釈して生きていく必要がある。

この思想は、私に自分の考えが特異ではないという安心感を与えてくれました。



例えばショーペンハウアーは私の悲観を肯定してくれます。

私は基本的に悲観主義者です。
人生なんぞ、結果的には苦痛の方が多いと心から思っています。
(とはいえ反出生主義者ではない)
口に出すのも憚られるこのような意見を彼は勇気を持って主張してくれたばかりではなく、その上でそれでも生きる肯定的な意見を残しました。
そういう意味ではその発展形としてニーチェの思想も私の人生を肯定してくれています。



先述の通り、哲学を学ぶことによって、人生における判断が明確に変わったという経験はしたことがありません。

しかし、少なくとも選択の結果としての今の自分を哲学によって肯定するという意味では、大きな助けになっています。

そして、その肯定は毎日の自分を支え続けてくれており、人生に対して迷わず邁進していく力を与えてくれています。

ですから、少なくとも私にとって哲学は学ぶか違ったものだと言えるし、逆にもし哲学に触れてこなかったら、今どうなっていたかわからない。というか変なことになっていた自信があります。


これを以て「哲学を学ぶことは万人にとって有用である」とは言いませんし、言えません。

しかし「哲学を学ぶことが人生の助けになる人はいる」と言うことは許されるはずです。

そしてきっとこの記事を読んでくださるような方々は、後者に属する人たちなのではないでしょうか?


私は哲学を学ぶこと、その面白さを他者に強要した事がありません。
あくまでもそれを選ぶのはその人の主体性にあると思うからです。

しかしそれに気づいたとき、人生の立体感が少しだけ増すのは間違いないと思いますし、それはとても素敵な事なんだと確信しています。



色々な哲学者のくだりを書きたいがために書いた記事を最後までご覧いただき、ありがとうございます。

この記事が何かの「肯定」につながるととても嬉しいです。


以上です。
また次回お会いしましょう!


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