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「自分」を脳の構造から検討してみる (分人主義解説動画のおまけ)


提供:ハイッテイル株式会社


こんにちは。哲学チャンネルです。

先日以下のような動画をアップしました。


前編




後編


この動画では平野啓一郎さんが提唱する「分人主義」を取り上げ、その主張の特性について解説しました。

簡単に内容を列挙すると

・「個人」という概念には柔軟性がない
・多様化した現代においては「個人」では対応しきれない
・「個人」をより細分化した「分人」という概念を採用すべき
・「分人」とは場面ごとに現れるそれぞれの自分のこと
・それは単なるペルソナではなく、全てが「本当の自分」
・逆にたったひとつの「本当の自分(個人)」は存在しない
・「自分」の中に複数の「本当の自分」がいると解釈すると、さまざまな問題に対してポジティブな解釈が可能になる
・「分人主義」は世界を解釈する一つのツールであり「全体における個」という観念が希薄になった現代において、非常に有用だ

詳しくは平野さんの著書「私とは何か――「個人」から「分人」へ」を、または先ほどの動画を参照いただきたいのですが、概ね上記が分人主義における主張の骨組みです。

個人的に、共感できる部分がとても多い主張です。



さて。

今回はその「分人主義」を少し拡大解釈する形で、自分なりに検討してみようと思います。若干長くなりますが、最後までお付き合いいただけると幸いです。



検討するにあたって材料にしたいのは、アメリカの神経学者であるポール・D・マクリーンが1990年に発表した著書『The Triune Brain in Evolution』にて提唱した『三つの脳の進化仮説』です。

マクリーンは、人間の脳を「①脳幹」「②大脳辺縁系」「③大脳新皮質」の三つの領域に分類し、それぞれの領域の特性から人間の行動を説明しようとしました。この主張はその後、さまざまな神経学者から批判されることになるのですが、考え方として非常に便利なので、今回はこの主張を元に検討をしたいと思います。

まずはじめに、それぞれの領域について簡単に説明します。


①脳幹

いわゆる「爬虫類の脳」などと呼ばれる領域で、主に無意識における反射行動を司ります。心拍や呼吸、体温調節や栄養補給、性行動などがこれにあたります。「生存のための脳」と呼んでも良いかもしれません。
人間においては2歳ごろまでに発達する「最初に完成する領域」でもあります。


②大脳辺縁系

いわゆる「古い哺乳類の脳」などと呼ばれる領域で、主に感情を司ります。「情動の脳」と呼んでも良いかもしれません。
この領域は扁桃体・海馬体・帯状回などで成り立っており、快不快に結びついた喜び・愛情・怒り・嫌悪などの衝動的な感情をコントロールしています。哺乳類が爬虫類に比べて感情が豊か(に見える)なのは、この領域が発達しているからだと考えることができます。人間においては2-8歳ごろまでに成熟する「二番目に完成する領域」です。


③大脳新皮質

「新しい哺乳類の脳」などと呼ばれる領域です。「理性脳」や「人間脳」と呼ばれることもあります。脳の一番外側に存在している両半球の大脳新皮質から成り立っており、認知能力・言語機能・想像力・学習能力などを司ります。いわば「思考するための脳」と言えそうですね。特に知能が高い哺乳類においてこの領域が発達しており、その最たるものが人間です。


『三つの脳の進化仮説』では、上記3つの領域が「三位一体」に相互作用し合うことで、人間の様々な欲求や行動が生み出されていると主張されます。主張を委細に語ることはしませんが、なんとなくそのイメージを前提してください。

もしよろしければ、右手で握り拳をつくり、それを左手でおおってみてください。その際、右手の手首にあたる部分が①脳幹、握り拳にあたる部分が②大脳辺縁系、左手にあたる部分が③大脳新皮質。
こうイメージすると分かりやすいかもしれません。



私はもともと、②大脳辺縁系と③大脳新皮質には「別の自分」がいると思っていました。分かりやすくいうと「能動的な自分」と「受動的な自分」です。

「能動的な自分」は③大脳新皮質に紐づいていて、理性的・生産的・計画的な行動を行います。「これこれをやろう」という明確な意思のもと、能動的に行為をする主体ですね。

「受動的な自分」は②大脳辺縁系に紐づいていて、衝動的・情動的・欲望的な行動を行います。「気づいていたらやっていた」という類の受動的な行動をする主体といえます。

『三つの脳の進化仮説』を前提に考えるならば、上記2つの「わたし」以外に「生物としての自分」つまり①脳幹に紐づいて、呼吸・筋肉運動・心拍・体温調節などを行う主体を想定できますが、これはあまりにも無意識的な主体なのでここでは無視することとしましょう。

その上で私は「本来人間は受動的な自分(②大脳辺縁系)を中心に生きた方が良い」という直感を持っていて、その意見は今でも変わらず、如何にそれが実現できるのかを日々模索しています。

しかし、多くの場合「受動的な自分(②大脳辺縁系)を中心に生き」ることは許されません。社会がそれを良しとしないからです。もう少し厳密にいうと、社会がそれを良いと思わせないようにしているからです。

特に、過剰な生産性至上主義が浸透した昨今においては「受動的な自分でいること」自体が忌避されます。

例えば、仕事をずる休みして湖畔に出かけ、のんびり微睡んでいる人がいるとします。この行為自体は素晴らしいものだと思います。朝から晩までせかせか働くのと比べて、よっぽど人間的で生物的な行為と言えるでしょう。
しかし、当の本人はそうは思えません。微睡みながらも心のどこかで「こんなことをしていて良いのだろうか」(これは「能動的な自分=③大脳新皮質の声ですね)という気持ちが巻き起こり、結果的にせっかくのんびりできる瞬間の一部を、後ろめたさを感じながら過ごすことになりがちです。

このように、私たちには「生産的であれ」「勤勉であれ」という呪縛がインストールされており、そこから逃れることは大変に困難です。

そんな前提もあり、私自身も「本来人間は受動的な自分(②大脳辺縁系)を中心に生きた方が良い」という直感を持ちながらも、自身にインストールされた呪縛を鑑みて「暫定的には能動的な自分を発揮している方が気持ちよく生きられるから、それを適用しておこう」と、多少妥協をしながら生きています。

大なり小なり、上記のような感覚って共感してもらえるのではないでしょうか。




本題です。
『三つの脳の進化仮説』を『分人主義』と重ねてみると、少し解像度が上がるのではないかと私は思っています。

『分人主義』における「それぞれの分人」とは、おそらく③大脳新皮質の領域におけるそれぞれの質感のことではないでしょうか。

自我がどこで発生しているのか?という問題を突き詰めると大変なことになってしまうので、あまり細かいことは考えないようにするとして、仮に③大脳新皮質において自我的なものが生まれていると仮定します。(となると③大脳新皮質が発達していない生物には私たちが感じるような自我がないということになります)

「私はこういう人間である」もっと言えば「我思う、故に我在り(Cogito ergo sum)」という質感は③大脳新皮質によって形作られており、そのパターンは一つではなく、場面ごとに複数存在している。
前述のとおり、③大脳新皮質に関連した「能動的な自分」は社会的な要請により構築されて(と勝手に思って)おり、社会的な要請はその集団のパターンによって多岐に渡るので、要請に紐づいた「自分」は、その種類だけ存在すると考えることができます。

人間は社会の要請によって「能動的な自分」を生み出す力を持っていて、同時に社会の要請は人間が持つ③大脳新皮質的な能力によって作られる。このような螺旋構造があるのだと思います。



『分人主義』の解釈において、どこまで行っても問題になるのが「たったひとつの確固たる本当の自分」という概念です。私たちは「たったひとつの確固たる本当の自分」があることを直感的に信じています。仏教用語で言うと個我(アートマン)的な観念ですね。しかし『分人主義』においては、自分という存在はもちろんあるのだけれど「本当の自分」というたったひとつの確固たる主体があるわけではない、と論ぜられます。

「たったひとつの確固たる本当の自分」という主体はなく『分人』としての「それぞれの本当の自分」がそれぞれ存在しているという『分人主義』的モデルは、私たちの直感から少し離れているので、そこがこの主張を受け入れ難い部分なのだと思います。

しかし「たったひとつの確固たる本当の自分」を②大脳辺縁系に紐づく自分として理解したらどうでしょう。私の解釈でいうと「受動的な自分」ですね。感情の中枢を担うような自分。それは③大脳新皮質における社会の要請によって醸成された自分に比べてより原始的な自分であるような気がします。私たちは自己の中にある②大脳辺縁系的な自分を「たったひとつの確固たる本当の自分」と理解しているのではないでしょうか。



ここに①脳幹の要素も含めて整理すると以下のようになります。

①脳幹的な自分=生命としての自分
②大脳辺縁系的な自分=原始的な人間としての自分
③大脳新皮質=社会的な人間としての自分

『個人主義』的な立場に立てば「①脳幹的な自分=生命としての自分」と「②大脳辺縁系的な自分=原始的な人間としての自分」を複合したものが「たったひとつの確固たる本当の自分」という質感を生んでいるものであり、「③大脳新皮質=社会的な人間としての自分」が、社会に要請されて『ペルソナ』をかぶっている状態の「たったひとつの確固たる本当の自分」であると理解されるわけですね。

一方『分人主義』的な立場に立てば「①脳幹的な自分=生命としての自分」も「②大脳辺縁系的な自分=原始的な人間としての自分」も「③大脳新皮質=社会的な人間としての自分」のそれぞれも、どれもが主体と表現しうるような「確固たる本当の自分」であり、そのどれにも次元的な優劣は存在しないと理解するということです。

『個人主義』と『分人主義』のどちらに賛同するかと問われれば、私は直感的に『分人主義』を選びます。そもそも「わたし」という質感は、脳のさまざまなモジュールが生み出す情報の複合だと思っているので、そこに一義的かつ絶対的な主体が存在するとはどうしても思えません。絶対的な主体が存在しないのならば、その主体は相対的なんだろうと考えるのが自然で、そういう意味で私は『分人主義』の考え方に納得しています。

しかし先述のとおり、いくら『分人主義』の主張を好意的に捉えても「たったひとつの確固たる本当の自分がいるというこの感覚」から逃れることは非常に困難です。そしてその感覚は『分人主義』の思考スキームを用いて世界を解釈する際にとても邪魔になる。そんなときに、今回検討したような折衷案(たったひとつの確固たる本当の自分がいるという感覚は「②大脳辺縁系的な自分=原始的な人間としての自分」にある)を採用すると、少しだけ『分人主義』の思考スキームが採用しやすくなるのかなと思っています。

まぁ、西洋哲学よりも東洋思想の方が好きな私の贔屓目もかなり入っていますけどね。私は『分人主義』はとても仏教的だと理解しています。

以上。
ぜひ動画もご覧ください!








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