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主体的真理|キルケゴール【君のための哲学#27】

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☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。



絶望


実存主義の先駆けとされているセーレン・キルケゴール(1813年-1855年)の人生は、実存主義的な問いに満たされた波乱を含んでいた。
彼はコペンハーゲンにある裕福な家に生まれ、何不自由ない幼少期を過ごす。敬虔なクリスチャンであった父ミカエルに倣って、彼自体もキリスト教を信仰した。
しかし22歳のとき、彼は父の秘密を知ってしまう。
父ミカエルはもともとセディングという村の貧しい農民の子供として生まれた。一家は教会を間借りして生活しており、その日食べるものにも困るほど困窮していたという。ミカエルはその運命と神を呪ってしまう。ミカエルにとってこの呪いが人生における枷になった。
ミカエルはその後、ビジネスマンとして一定の成功をおさめる。その後、彼は結婚し7人の子供をもうけるが、そのうち5人はキリストが磔になった34歳まで生きられずに亡くなっている。彼は子供が死んでしまうことも、ビジネスで成功したことすらも、神からの罰であると考えていたらしい。
また、ミカエルはキルケゴールの母親であるアーネに対して、婚前に性的暴力を行っていた。これによってアーネは妊娠し、二人は結婚することになるのだが、これもキリスト教では禁忌とされる行いである。
キルケゴールはそれらの秘密を知ってしまった。このことを彼は「大地震」と表現している。敬虔なクリスチャンであった父の秘密は、その後ずっとキルケゴールを悩ませることになる。なぜならば、父に付与された罰は、必然自分にも引き継がれると考えていたからだ。(秘密を知った後にかなり荒れたとも、秘密を知って放蕩生活が終わったとも言われている)
彼は37歳のときに20歳年下のレギーネという女性に求婚しているが、求婚が受諾されたのにも関わらず、後日その申し出を取り下げている。理由は不明だが、愛する人を自分の不幸に引き摺り込みたくないという思いがあったのかもしれない。(ちなみに彼は著作にて、レギーネとの結婚を諦めた理由の中に自分の思想の全てが含まれていると述べている)
その他にも、彼の人生にはさまざまな不幸なことがあった。(雑誌での論争によって世間の笑い物に仕立て上げられたこともある。その際は、みすぼらしい人の形容詞が「セーレン・キルケゴールみたいな人」だったらしい)
彼はその短い人生の中で、人生の意味について徹底的に考えた。そして、彼は最後にもう一度信仰にたどり着いたのである。


君のための「主体的真理」


キルケゴールはヘーゲルを否定した。当時、ヘーゲルの力は絶大だった。ヘーゲルの弁証法的な歴史観は、世界が一つの真理に向かって進化していく希望を提示した。しかしキルケゴールにとって世界の客観的な真理は二の次であった。それよりも自分にとっての真理、あるいは自分がどう生きていけば良いのかという指針。それだけに興味があった。全体ではなくて個。これが実存主義の萌芽である。

キルケゴールは3種類の実存を提示する。

①美学的実存
→快楽を追求する生き方、衝動的な生き方
→避けられない「死」という概念から目を逸らしているため、いつかその概念に気づき、絶望する。

②倫理的実存
→「死」と向き合い、それを克服する真理を探し求める生き方
→有限な身体は真理を実現することができないため、絶望する

③宗教的実存
→絶望を自覚し、単独者として神と向き合う生き方
→これこそが理想的な生き方である


これはまさにキルケゴール自身が人生で経験した段階である。
彼は若いときに放蕩生活を送ったという。それはきっと自身の「死」からの逃避的な行動だったのだろう。やがて彼は(ヘーゲルの影響もあったかもしれない)人生における普遍的な真理を追求するようになる。しかし、ついにその方法で幸福を得ることはできなかった。美学的実存における絶望と、倫理的実存におけるそれは、彼自身がまさに経験した限界だったのだ。
さまざまな経験を経た彼は、ヘーゲル的な普遍に別れを告げ、単独者としての個別を追求するようになる。彼は、誰のためでもない、彼にとっての真理を求めたのである。

「自分がそのために生き、そのために死ぬことができる信念」

キルケゴールはこれを主体的真理と呼んだ。
主体的真理に辿り着くためには、個人的な快楽を超越し、理性に頼った世界理解すら超越しなければならない。彼はその結果として信仰に舞い戻って来たのである。
しかし、彼が説く主体的真理は、何も必ずしも信仰に関連しなければならない概念ではない。(広義には必ず信仰を伴うとも言えるのだが)
重要なのは彼の反ヘーゲル的な姿勢である。自分の人生は自分のものであり、他の誰かのために生きるものではない。だから、人生における信念は、他の誰かが決めたことや、世間一般が正解としていることである必要はない。
「自分がそのために生き、そのために死ぬことができる信念」
少なくとも、私たちの人生の意味の一つは、この主体的真理を探し求めることにあるのかもしれない。

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