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多数者の専制|ミル 【君のための哲学#7】

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☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。



多数者の専制


ジョン・スチュアート・ミル(1806年-1873年)は、当時世界の覇権国であったイギリスにて、自由について徹底的に考えた。元来、自由というものは政府と国民の間で奪い奪われる関係にあった。しかし、19世紀になると民主主義国家が台頭し、国民と政府はイコールで結ばれることになる。すると、自由には「政府による法的抑圧」に追加して「国民同士の社会的道徳による抑圧」という敵が現れた。
後者の抑圧を多数者の専制と呼称する。
ミルは、この二つの抑圧から自由を守る重要性を主張し「他者に危害を加えない限り、個人はどこまでも自由である」あるいは「政府や社会(国民同士)は、社会に危害が与えられると想定する場合のみ、個人の自由を制限して良い」という原則(危害原理)を提唱した。
ミルは功利主義者である。功利主義とは社会全体の幸福の総量が最大化することを第一に考える立場を指す。だから社会全体の功利が向上すると考えられる場合の政府による介入や制限を、彼は否定しない。しかし、個人の意見や行いが社会全体の功利を損なわない場合、政府にも国民同士にもそれを制限する合理性はない。
個人が個性を最大限に発揮し幸福を追求する権利は、他者に迷惑をかけない限り絶対に保証されるべきなのだ。


君のための「多数者の専制」


ミルが『自由論』を著してからおおよそ200年。
私たちの社会には、いまだに多数者の専制が存在している。
一番顕著なのは「意見に対する攻撃」であろう。突飛な意見や、一般的に間違っていると考えられる意見を表明すると周りから総攻撃にあう。場合によっては、その意見の間違いだけではなく、その意見を持つ人間の人格まで否定されることも少なくない。特定の意見を持っただけで誹謗中傷の対象になってしまうのだ。
ミルは「全ての意見には自由があり、それを抑圧する論理的整合性は存在しない」と考えた。
その意見が正しい場合は、それを抑圧するのは間違っているだろう。正しい意見を封殺することは、社会の発展を阻害することと同義である。
一部正しく・一部間違っている意見に関しても、それを抑圧するのは間違っている。意見には、複数のそれがぶつかり合うことで新しい意見として昇華する性質がある。これまでの社会も、そうした意見のぶつかり合いで発展してきた。反対意見を封殺し議論の機会を奪うことは、意見の昇華を否定する行為であり、これもまた社会の発展を阻害することと同義である。
完全に間違っている意見を抑圧することはどうだろう。確かに意見が完全に間違っていると確定できる場合、その意見は社会に悪影響をもたらすかもしれない。しかし、ミルは「それでも抑圧する合理性はない」と考える。彼は、これまで人間社会が大きく道を逸れずに発展してきた要素として「人間だけが持つ訂正する力」を挙げる。人間には、自身の間違いを認めて、それを訂正する力が備わっている。そしてその力は議論によって培われる。議論を廃していると訂正する力は弱まり、人は自身の意見に執着するようになる。これも社会の発展を阻害する材料である。だから、完全に間違っている意見と言えども、それが議論を喚起し、訂正する力を向上させる可能性を持つという意味で有用なのである。
そもそもある意見があったとき。その意見を「完全に正しい」「完全に間違っている」と、どうして判断できるだろう。それが判断できるという認識自体が間違った認識ではないだろうか。
誰しもが自由に意見を持って良い。意見同士がぶつかって議論になることはむしろ重要である。しかし、特定の意見に対して、その意見を封殺するような働きがあったり、意見を持つ人間が誹謗中傷に晒されることは多数者の専制である。
他者の意見を柔軟に受け取り、必要とあらば正当に議論を行う。そして、自分の意見には自信を持ち、常に訂正する余白を持って主張をする。
ミルが提示した表現の自由に関する考察は、今の私たちにこそ響く主張なのかもしれない。

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