44. 対談・今日から明日に向かって   郷内満 若林勝

ー知られていないアイヌ問題

若林  つい最近のことですがね、東京都内で”差別問題を学習しよう”とい若者たちのグループが出き、その会に参加した人がわたしのところにきて、こういうんですよ。
「会のリーダーの人が、日本における差別問題といえば、部落問題、沖縄問題、在日朝鮮人問題‥‥、その他いろいろあげたけれど、アイヌ問題ということばがでてこないんです。それで、アイヌ問題のことを聞いてみたら、まったく認識されてないんです。」
この話を聞いて、驚きましたね。差別問題に関心の深い人にでさえも知られていないのかと‥‥。

郷内  そうでしょうね。実をいうと、地元北海道でさえも、まだ知らない人の方が多い、といえますからね。本来なら、日本の問題、いや世界の問題としてとらえられていなければならないのに、まだ、北海道の問題としても取りあげられていない‥‥、今になって、やっと頭をもちあげてきた、というところですから。

若林  そこで、なぜ、知られていないのか、また、今日までなぜ放っておかれたのか、という問題になるんですが‥‥。

郷内  これは一つにね、今までの歴史の過程の中で、アイヌの人たちが、どのような道をたどっていったか、ということなんですよ。”ものをいわざるアイヌ””怒ることを忘れたアイヌ”そして、”アイヌはダメな奴なんだ”と、アイヌ自身がアイヌを否定し、アイヌプリ(アイヌの生活)を捨てていった‥‥。特に、四十、五十代の人たちは血をうすめることによって、アイヌ差別からのがれることができるんじゃなかろうか、貧困などということよりも、自分のからだに流れるアイヌの血をうすめなければ、日本の社会にふみ込んでいけないし、日本の体制の中では、人間として認めてくれない、と体質的にくみとっていったわけですよ。

若林  明治時代から政府がとった同化政策が、実にアイヌの心の中までしみ通っていったということですね。そして、そのようななかから「消えゆくアイヌ」「ほろびゆく民族」ということばが生まれ、一時、マスコミなどで盛んにとりあげていった‥‥。

郷内  また確かに、民族としての独自性は失われていったと思いますよ。

 それに、多くのアイヌの人たちは、このマスコミの表現を否定するどころか「そうだ、おれたちはもう滅びていいんだ、このような差別に苦しみ生きていくのなら、早く、アイヌの血は消えてくれ」と思ったわけでしょう。

若林  いかに自分が、和人から、和人として見られるか、が生きていくためにだいじであったか、ということなんですよね。実際に現在、わたしなんか、アイヌ系の人に会っても相手の方から、アイヌといわれなかったら、わかりませんものね。これはわたしばかりでなくて地元以外の人ならみんな同じだと思いますよ。

郷内  そうでしょうね。それに、暮らしそのものが、すべて、和人と変わりないでしょう、アイヌが、なによりもだいじにし、祈り信じてきたカムイまでが、仏教になってしまったんですからね。

 ところで、このようになっていく過程の中で、何度か、これではいけない、という運動が起こっていたんですよ。たとえば、喜多章明の、アイヌ歴史を学びながら人間の尊厳を訴えていかなければいけない、という活動、また、偉星北斗の文学を通してのアイヌの訴え、江ガ虎蔵の同和教育の必要性と差別政策に対する戦い、それにまた、鵡川の辺泥和郎を中心に、「ウタリ乃光」という機関誌活動を通して問題の本質を投げかけていった‥‥。まだあげると、ありますが、しかし、これらの運動は、残念ながらどれも、小さな点の存在でしかなく、一つ一つが結びついていかなかったということと、これらの訴え、呼びかけに対して、結果的に、応えていくウタリが少なかったということなんです。こんなこと今さらやったところでどうなるんだ、という、また、こういう状態は何年も何年も前からなってしまったんだ、という時代の重み、歴史の重みに完全にたたきのめされていた、ということでしょうね。

ー「アイヌ系日本人」ということば

若林  現在、アイヌ系の人が、一万七千人といわれていますが、純粋なアイヌといわれる人は、どのくらいおられるんですか。

郷内  おそらくいないでしょうね。地域によって同化の差はありますが、今のアイヌには、和人の血が流れていますよ。

若林  最近、よく使われる「アイヌ系日本人」ということばが生まれたのも、こういうところにあるわけですね。

郷内  そういうことですね。アイヌの血が濃かれ薄かれ、流れている以上は「アイヌ系」であることにまちがいないわけですよ。そしてまた、濃さや薄さにかかわりなく、必ず自分はアイヌであることを意識しなければならなくなるわけです。時間的に早いか遅いか、その違いはあるでしょうが、差別問題に対面し、苦しまなければいけなくなるんですね‥‥。結局は、血を薄めるということは、どういうことなのか、同化とはなんなのか、という問題になるんですがね。

若林  先日、わたしのところに遊びにきたIさんが「わたしはアイヌなんだから、はっきりアイヌといってもらいたい。アイヌ系というあいまいにしたことばはきらいです」といっていましたが、わたしは、このことばから、同化というごまかしに対する怒りを強く感じましたね。

郷内  アイヌだからといって、自分を卑下することはないんだ、血を薄めることはなにもよいことではないんだ、と自覚しはじめた若者たちが、やっと今になって、手をつなげるほどにふえてきた、といえるでしょう。しかし、その若者たちでさえも、いざ結婚となったとき悩むのですからね‥‥。相手を和人に求める気持ちが大きくなるんです。血を薄めることによって、生まれてくる子どもに、自分と同じ差別の苦しみを味わわせたくないという願いがこめられるんですね。

若林  そのような話を、わたしも何度か聞かされ、差別の重みを、目の前につきつけられた思いで胸がしめつけられました‥‥。

ー内部からの告白

若林  ところで、このアイヌ問題が、戦後、社会にクローズアップされた、というのはいつごろですか。

郷内  昭和四十一年(1966)だったと思います。釧路に住む一アイヌ女性が、新聞にささやかな投稿をしたんですよ。しかし、この投書は、新聞・マスコミ界ににとって一つの驚きであったんですね。投書を中心に大きくとりあげていった‥‥。と同時に、この投書と同じ悩みをもつ若いウタリたちにとって、覚せい剤的役割を果たしたわけです。また、このころというのは、教育界の中で、民族教育の運動が進歩的教師によって多くとりあげられていたときでもあったということですね。ですからここに、投書と一致するものが生まれていったわけですよ。

若林  彼女が投書する、提言するということですね。これを行うには、なにかの支えがあったのでしょうね。

郷内  ええ、その基礎となったのは、ペウレウタリ(若い仲間)の会ですよ。

若林  なるほどね。実は、わたしがこの会があることを知ったとき、大きな期待をかけたんですよ。若いウタリの手によってつくられたもの、それはアイヌ(人間)を取りもどす会だろう、と自分勝手に想像してしまって‥‥。是非、ペウレウタリの会の人たちに会ってみたい、と思っていたら、この会はもう解散してしまっていた‥‥。

郷内  この会の出発点は、東京から観光旅行にきた大学生と現地の若いウタリとの親睦から始まるわけですよ。ところが、会を進めていく中で、単なる若者のつどいではなく、アイヌ問題に対面せざるを得なくなり、この問題を真剣に取りあげていった。機関誌活動や話し合い活動を通して問題をほりさげていったわけですね。

若林  この会に対する周囲の目、とくにウタリの人たちはどうであったんですか。

郷内  はじめのころのことはよくわからないけれども、応援する人は少なかったようですね。「おまえら、今さらなにやってんだ」という抜け切れない見方ですよ。また、北海道のシャモの青年たちの関心も薄かったということ、これも見逃せないでしょう。結局、関心をもってはいってきた人たちといえば、東京の大学生への憧れというあまさがあったことは否定できないと思うし、そのあまさの中で、実は大変な本質的問題に取り組んでいった‥‥。しかし、ペウレウタリはそのような中でも、アイヌ運動の方向とか、アイヌを見つめる方向を示唆した功績は大きいわけです。ただ、どんどん高い理論が進められ、そして、理論的には、そうだとわかりながらも、アイヌ系の青年にかかってくる重みは一つもとれていかない‥‥。そんな状態の中で、ペウレウタリは、マスコミに大きくとりあげられていったわけです。NHKTVの「現代の映像」でも放送されましたね。ところが、ペウレウタリにしてみれば、マスコミに取りあげられることによって、それが重味になったということでしょうね。全国に自分たちのやっていることを紹介されるのですから、もう後退することができないという、義務感、責任感をもたざるを得なくなるでしょう。こんなときに、ペウレを離れていく人たちが出てきた‥‥。そこで会では、各地に支部をつくって活動を広め、また、社会に「現代のアイヌ」を告白しようと、出版計画などもたてたのだが、どちらもなかなか思うようにいかなかった、という結果をたどり、現在のように開店休業の状態になってしまったわけです。ここに至るまでには、会の中の和人とウタリとの信頼関係がくずれていった、ということもあるようですね。

若林  ひとくちにいうと、差別の壁は厚かった、ということなんでしょうけれども、それにしても、差別の苦しみを知らない東京の学生たち、知っているといっても、わたしと同じようにことばで聞いたうすっぺらな概念ですよね、そのような人たちが会の指導的立場にあった、というところにも問題があるわけですね。

ーウタリ協会の活動

若林  そこでね、ウタリの人だけによって組織されている「ウタリ協会」のことなんですがね、わたしは期待が大きかったのですよ。三年ほど前だけれども、仕事との関係があってこの協会へ取材に行こうと考え、先ずどこにあるのかと所を調べてみたんです。そしたら、北海道庁内となっているでしょう。わたしは首をひねってしまってね‥‥。戦前のアイヌ協会とは違い、戦後つくられたウタリ協会なんだから、民主団体であろうと一人合点していたんですね。でも、協会はどんな活動しているのかと、電話を入れてみたんですが、その答えがお粗末なんだなあ。のらりくらりしていてはね返ってこないんですよ。そこで「協会で出している機関誌なり出版物を送ってほしい」とお願いしたら「そういうものはありません」という返答でしょう。いったいウタリ協会とは、何なんだ、と。

郷内  なるほど‥‥。わたしはね、戦前のアイヌ協会の方が「ウタリたちが手を取り合わなければ!」と、確かなよいものをもっていたと思います。戦後になって組織されたときには道庁のバックアップも大きかったし、また協会そのものに対してアイヌ系の人たちが冷たかったということもいえるでしょうね。中には、むかしをなつかしむノスタルジア的なものにとらえていた人もいたでしょうし、また中には、協会にはいったからといって、おれたちにどんな得がある、といった見方をする人‥‥、若い人たちは寄りつこうともしなかった。ウタリの会としては唯一のものなのに、全道に一万七千人いるウタリの中から協会に入会している人が公称一千名、実質的にはかなり下回ると思いますよ。年に一回総会を行うのですが、集まってくる会員は、百人足らずというのが現状ですからね。協会がなにをしてきたか、それは、協会の事務局が、あなたが調べられたように、道庁の民生部総務課の中にあったのですから、だいたい見当がつくでしょう。

 ウタリ協会が行ってきた活動といえば、ウタリの生活向上のために、という願いを中軸に据えて、環境整備の問題、住宅の問題、浴場の問題、教育向上の問題、職業指導の問題‥‥。一部のリーダーは、よくこれらを理解し、着実に実践しながら問題の本質に触れて頑張っていますが、後は、今話したように名目会員が多く、会費さえ収めておけばといった姿も見られたりしましてね‥‥、こういうことが、協会に参加してない多くのアイヌ系の人たちに、結局は、ウタリ協会にはいることによって、自分はアイヌであると天下に公称し、これからもおしかかってくる差別をまともに受けるんじゃなかろうか、そんなことをする必要はない、という考えをもたせていくんですね。ですから、若い者たちの告白が、協会の中からでなく、まったく別のところから起こってきている、ということですね。これは、行政に頼っているウタリ協会を信じることができなかったことを示しているわけでしょう。

若林  本来なら、そのような告白こそ、協会が行わなければいけない仕事であるはずでしょう。わたしは、ウタリ協会って、つぎのように考えていたのですよ。ウタリ協会こそ、アイヌ系の人たちの苦しみや悲しみを一番よく知っており、また、その苦しみや悲しみがなぜ、どうしてつくられたのかも、だれよりも一番わかっているはずだ。だからこそ、基本になるアイヌ問題に、一番真剣に取り組まなければいけない、とね。生活改善とか施設とか、協会が掲げている問題は、どれもだいじなことであるにちがいないけれども、しかし、それは行政側が積極的に行わなければいけないことですよ。ですから、協会が行政の窓口になるんではなくって、行政のお目つけ役的なもの、ハッパをかける役に立たなくてはいけないはずなんですよね。わたしは協会が、このように徐々にでも体質改善されていくことを望みますね。アイヌ系の人たちによって組織された唯一の協会なんですから。

ーウタリと教育を守る会の運動について

若林  つぎに、あなたが提唱し、組織していった「ウタリと教育を守る会」についてですが‥‥。

郷内  この会は、今から五年も前になりますか。一地域の少数の教師が、学校教育の中で、アイヌを正しく教えていかなければいけない、という自覚と実践から出発したものです。今までにも話したように、アイヌ系の人がアイヌから逃げているというのは現実の姿ですが、それが、子どもにまでくいこんでいるということです。アイヌの子どもまでが、アイヌを差別しているんですね。しかし、これは、正しいアイヌを知らされていない子ども、人間の価値というものを理解させてもらえない子どもにしてみれば当然のことだと思うんですよ。ですから、教室の中で、正しい人間の姿、アイヌの姿を教えていかなければいけない、大きくいえば、日本の歴史の中に、アイヌの位置づけを正しくしていかなければならない、というねらいがあったわけです。わたしたちは、このような教育を行いながら、子どもの親たちとか地域の人たちとどんどん話し合っていきました。また、ささやかな機関誌活動も行いました。ところが、この機関誌活動に、一番先に反応をしめしてくれたのが、アイヌ系の若い人たちであったということですよ。その人たちは、自分たちが学校時代、いろんな差別に泣かされたけれども、それに対し、先生はなにもしてくれなかった、という教師に対する痛烈な批判ですよね。ですから、ウタリと教育を守る活動というのは、彼らに感動をもって迎えられたと同時に、また、一種の疑いをもって見られた、というのも事実だろうと思うのです。ほんものなのかな、ということですよね。

 わたしたちは実践の中から、このアイヌの現状を、一人でも多くの日本人に知らせていかなければならない。そして、日本人の問題としていかなければいけない、という自覚に立ち、教育研究会などの機会をとらえ、発表し、活動の輪を広めていきました。このときわたしが痛切に感じたことは、アイヌ系の人たちは、本質的にみんなこの教育を求めていたんだ、求めていたからこそ、最初に疑いももったのだ、ということです。それに提言して感じたことは、このアイヌ問題が和人側に、まったく知られていないし、知ろうともしないという姿勢が定着しているということ、それともう一つ、こういう差別とか偏見というものは、たくみにいんぺいされ、表面化してこない体質をもっていた、ということですね。だから、表面現象だけを眺めていると、差別だとか偏見といわれても、よくわからないんですよ。

 ところで、この活動の中から、日ごろから、この問題を考えていた若いウタリたちの連帯が生まれていった、ということですね。

 わたしは、この連帯の場面に、できるだけアイヌ系の人たちの参加を求めていきました。そこでですよ、そこに参加した壮年の人たちが驚きをもってこの姿を見たのは‥‥。”若者たちがこれほどに切実な悩みをもち、こういう方向をもっていたのか”と。今の若い者は、完全に脱アイヌを志向している、としか考えていなかったのでしょう。ところがそうじゃない”アイヌにたちかえれ”という認識が、厳しい現実の中からつくられているんですね。また、その核になった若者たちというのは、実は自分自身でいろんな体験を積み重ねた中で、自分で見つけ出した方向なんです。

 この姿が、壮年層を動かしていきましたね。そして、この壮年層が動いた、ということが、運動としての本質的な形にまとまっていったわけです。

若林  ウタリと教育を守る会のこれからの活動に大きな期待をよせている人たちが多い。わたしも、その一人なんですから。それだけにこれからが大変ですね。

ーマスコミの効果

郷内  マスコミというと、いろいろな功罪をもっているのですが、今日のアイヌ問題を広めたその一つに、マスコミの力もあったことは否定できないと思いますよ。釧路の一女性からはじまって、ペウレウタリの「現代の映像」、またNHKの室蘭放送局では、ウタリというシリーズをつくり、現代のアイヌを知らせるために、取りあげていきました。

若林  そこにおける取りあげ方というのは、前向きな姿勢であったわけですね。

郷内  わたしは、そう判断してあげたいですね。アイヌ系の人たちには、体質的に、マスコミ拒否の態勢はあるけれども。しかし、現代は、ある面では、マスコミに支配されているわけでしょう。ですから、すべてを拒絶しては、運動は展開されませんからね。マスコミのとらえ方がまちがった場合には、徹底的に指摘しながらやっていく‥‥。だから、若いアイヌ系の人たちの中には、マスコミを利用したといえばおかしいけれども、マスコミとの共同戦線というものも出てきましたね。ただ、マスコミは結論を急いだり、一つの形、方向を求めるわけですよ。そういう点で、運動そのものに波風ができたことは事実だけれども‥‥。

ー開道百年とアイヌへの目覚め

郷内  四年ほど前になりますが、開道百年(北海道開拓百年)の催しが北海道をあげて行われたのですが、このとき、釧路に住むYエカシらから「先住民族といわれるアイヌの顕彰が一つもなされないというのはおかしいじゃないか」という意見が出てきたわけですよ。このころから、アイヌの価値を見直してほしいという願いが、いろいろな形で表れはじめてきたわけですね。

 Yエカシらが中心になって、アイヌ大供養塔を建てる構想が生まれ、当時の金田一京助はじめ、アイヌ学者の面々がそれに賛意の書をつけて、道庁に申し出たのですよ。それに対して「アイヌの功績は認めます。しかしアイヌを認めたら当時の囚人労働者も屯田兵も認めなければいけない。だから、アイヌだけが功績者だといって北海道の礎というならば、これは片手落ちではなかろうか、だから、一切の先人開拓者の苦労を込めて、開拓の碑を建てましょう」ということになったんですね。札幌の開拓記念館横に建てられた百年の塔が、それですよ。

 そこで、願いが少しでも認められたからよかった、ということなんですが、しかし、これは当事者間での話し合いであって、ほかの人たちには何も理解されていないわけです。だから、百年の塔を見ても「あの塔には、おれたちアイヌの願いがこめられているし、また、おれたちの先人の霊もまつられているんだ」と思う人は、残念ながら、わずかなわけですよ。

若林  わたしも、あの百メートルの高い塔を見たとき、そんなこと感じませんでしたね。百年たったから百メートルの塔が建てられたという説明は聞かされたけれど‥‥。しかし、道庁の開催側が、今の話のように、認めるという気持ちが、もしほんものであったとしたら一歩前進ですね。

ーシャクシャイン像と自覚の高まり

郷内  開道百年の翌々年、日高の静内でも開町百年の事業が行われることになったのですが、このとき。シャクシャイン顕彰会が出発するわけです。このことについては「我らシャクシャインの血をひくアイヌなり!」を読んでいただけばわかると思いますが、最も重要なことは、全道のウタリが一つになって行動を起こし、この仕事を成功させることができたこと、そして、道内の十勝アイヌ、釧路アイヌ、日高アイヌ、胆振アイヌがこの地で、はじめて一同に集まることができた、ということですね。血の呼び合いとでもいえるかもしれません‥‥。そして、ここに集まった人たちが、それぞれちがった地域に住み、それぞれちがった生活をしていても、底に流れている願いは、みんな同じであった、ということなんですよ。

若林  東京に住んでいる若いRさんが、わたしのところに遊びにきたとき「どんなことがあっても、シャクシャイン祭りにはいくんだ、そのために、五十円硬貨は使わないようにして貯金箱に入れている‥‥」というんですよ。わたしは、このことばで、シャクシャイン祭りというものがわかりましたね。アイヌの心のふるさとなんですね。

郷内  集まってくるウタリたちは、心からの対話を求めているわけですよ。今までの対話の中からおたがいに知り合ったことは”おれたちは仲間を知るのが遅かった”ということですね。この自覚は、実は、自分自身を知らなかったことに共通しているわけですね。ですから、夜を徹して対話が生まれ、その中から、あたりまえのことなんだけれども、アイヌ同志が手を結ばなければなにもできないんだ、という強い自覚ですね。
 だから、わたしたちは、このシャクシャイン像を、アイヌのシンボルとし、「民族解放、人間平等の旗印」とも呼ぶわけですよ。

若林  まさに、その通りですね。また、そうでなければいけませんね。アイヌの心が結集してつくられた唯一のものなんですから‥‥。

郷内  しかし、とはいっても、まだ、同じアイヌの仲間を見たとき「おまえたちそんなことをやって‥‥」と、そっぽを向いてる人たちが、多くいますからね‥‥。

ーさまざまな問題

若林  つぎに、目を外に向けてみたいのですが。結局、今までの話のように、アイヌ系の人たちは変わってきているわけなんだけれども、しかし、和人には知られていない。まったく、目を向けようともしない‥‥。

郷内  アイヌの人たちが自覚してわかったことは、和人の自分たちへの認識不足ですよ。たとえば、本州から観光客がアイヌを見にくると、古代も現代もなく、アイヌとはまったく異質な風俗習慣をもち、外国人というよりも、変わった人間だ、ととらえてしまうでしょう。これに対して、アイヌの人たちはものすごいいきどおりを感じていたわけですよ。

若林  しかし、わたしも観光地へ何度か訪ねてみましたが、観光コタンでは、そのようにとらえてもらおうと懸命になっているわけでしょう。また、それを売りものにして、客を集めようとしてるのですからね。日本中にはられている北海道の観光ポスターの多くには、古代アイヌの人間が描かれ、全国の書店で売られている北海道ガイドブックには、古代アイヌの姿をした人間の写真、風俗、文化なども写真といっしょに説明入り、それに、北海道ラーメンとか、札幌ラーメンと称する店には、やはり、古代アイヌの姿を‥‥、というように、現代のアイヌは完全にシャットアウトですよ。本州から観光コタンを訪ねた人は、ガイドブックやポスターとまったく変わりない姿を見て偏見をもつ。つまり偏見をつくらせているともいえますね。本来なら、どんな人間を見ても偏見をもつことじたいが誤りなんだけれども‥‥。

郷内  アイヌの人たちも、アイヌを理解してもらえない原因がわかってきたわけですよ。北海道の観光政策には怒りを感じていますよ。結局、生まれるべくして、偏見は生まれているのではなかろうか、ということですね。そこで、現代のアイヌはこうなんだという姿を知らせていかなければいけない。現代の姿を知ってもらうことが何よりもだいじなことなんだ、となってきたわけです。

 アイヌを正しく理解してもらう、これがアイヌ問題を日本の問題に発展させていく基盤になるんですからね。

若林  知らないということは、問題にしたくても、しようがありませんからね。この話のはじめのように、かなり人権問題を考えているグループでさえも、アイヌ問題を知らなかったというような‥‥。

 そこで、このアイヌを正しく知らないことの責任は、どこにあるのかという問題ですよ。

郷内  その責任の一たんを大きく背負わなくてはいけないのは、日本の教育と日本の歴史でしょうね。学校教育の中で、アイヌのアも教えられていない、この現実ですよ。また、日本の歴史の中でアイヌが完全に無視され、たとえば、シャクシャインの戦いは、島原の乱より、はるかに大きく、また歴史上においても、民族の興亡の戦いというたいせつな問題であるのに取り挙げられていない事実‥‥。もし日本の歴史の中に、正しくアイヌが位置づけられ、取り扱われていたら、今日のアイヌ問題が、これほどにならなかったと思いますよ。

若林  まったくその通りですね。敗戦後、国民の歴史とか、新しい歴史づくりなどと叫ばれながらも、このような問題が、見落とされていた。これは意図的であったかどうかは別にして、日本にとってもっとも重要なことであったということです。これは、沖縄にしても同じことがいえますね。日本の歴史を見つめなおす仕事、これは国民一人ひとりにとってたせつなことですね。

郷内  つぎにわたしは、アイヌ学者の責任もあげてみたいと思いますね。アイヌの人たちは、今まで本州の方からエライ学者先生がきて、いろいろ調べているんだから、アイヌのことは本州の人たちの方がよく知っているだろう、と思っていたわけですよ。ところが、調べたことは、個人の財産的な知識におさまっていたということですね。

若林  「アイヌ学者は、わしらをくいものにしている」「アイヌ学者は、おれたちを利用して自分を築いている」こんなことばを、直接聞かされたときには、わたしは何もいえませんでした。まだ、アイヌ学者という人に会ったことがないんだけれど‥‥。

 わたしは、アイヌ学者こそアイヌ問題の先頭に立つのがあたりまえだと思うんですよ。一番アイヌのことを知っているんですからね。調査に行けば、アイヌの人たちの生活をまのあたりに見、その中から、生活の苦しみや悲しみ、差別の矛盾など、いやというほど知るわけでしょう‥‥。考えてもらいたいですね。

郷内  アイヌ学者の方々も、だんだんと変わってくるでしょう。アイヌの人たちの意識が変わってきているんですから。

若林  差別・偏見の問題というのは「寝た子を起こすな!」とか「くさいものにフタをしろ!」とかいって社会の中にたくみに密封されてきたけれども、そろそろ限界になってきましたね。しかし戦後、平和憲法が制定され、人権尊重が叫ばれてから、すでに二十七年、考えると長かったと感じるのはわたし一人ではないでしょう。二十七年たって、やっと形となって動き出したといってよいのでしょうから‥‥。

郷内  今わたしらがやらなくてはいけないことは、広く多くの人たちに、まず、正しいアイヌの姿を知ってもらうということです。

若林  そうです。正しく知ることの大切さ、知らない、知らせられないことの恐ろしさ、これがやっと認識させられてきたということですね。
”正しく理解されていたなら”という血のにじむようなアイヌの人々のねがいが、今ようやく芽ぶいてきたといえるでしょう。新しい、それでいてほんとうに待ちどおしかった出発が、やっと明日に向かってスタートしたのではないでしょうか。

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