08. ある経験            主婦 三十歳

 ひとりの男が、休みを利用して北海道旅行にやってきました。彼は耳が不自由でした。アイヌメノコ(娘)の私と知り合って文通し、二人が将来を真剣に考え合って結婚しました。縁とは、ほんとうに不思議なものと思います。

 喜びに満ちながら勤めていた木彫組合が倒産して、賃金の不払いがつづき、私たちはいくばくかの貯金も使い果たしてしまいました。三日目か五日目に、生活費をお願いすると、五百円、千円と渡してくれるだけで、目のまえにくる冬の準備はおろか、着がえの服も買えない始末です。

 なれない寒さに風邪を引いてしまった主人、幸い、近所のおばさんが、お古だがといって衣類をたくさん持ってきてくれました。また、遠くに見える炭鉱のぼた山に行き、上から落ちてくる岩石をさけながら石炭を拾い、それを木くずとまぜて燃やしては寒さをしのぎました。

 こうしたことを何度かくり返し、冬期を過ごしました。

 主人は、木彫りという特殊な仕事で、独立するにはまだ若いのです。

 私たちは、今夜の食事にも困る貧しい生活に追いたてられてしまい、人を介して、ある郷土民芸製作所に二人で勤めることになりました。

 この製作所は、卸しが専門で、各観光地、物産公社に品物を納めているところです。ですから品数を揃えることが先決で、模様ひとつにしても粗雑な彫り方で、これが民芸品かと驚きました。

 メノコの顔、酋長の顔、どれもアイヌを利用した商魂のたくましさを感じさせられました。

 ある日、社長が、私たちが以前に勤めていた組合の理事長のことを、
「あの人はだめだ。組合をつくっては何回もつぶしているし、酒にのんだくれて‥‥。」
といってきました。

 たしかに、私たちは生活に困っていました。しかし、理事長はじめ、一緒に働いていた人たちを非難して、ここへきたわけでは決してありません。

 理事長は、私の見たアイヌの人の中で、最もりっぱで尊敬できる人であったからです。
「悪口をいわないでください。あの人だけが悪いのではありません。」
と、ことばを返していました。すると、社長は険しい顔になって、
「おまえら、食うや食わずの生活がいやでここへきたんだろう。人を通してきたんなら、顔をつぶさないように働くんだな。」
と、いい始めました。

 見るからにみすぼらしい格好のアイヌメノコのことばが、生意気とうけ取られても仕方のないことかもしれません。

 私の周囲は、重苦しい空気になってしまいました。
”独立した方がよかったかもしれない。たとえ失敗してもまだ若いのだ。私は何を考えていたのだろう‥‥”
と、切り抜いた板にローラカンナをかける仕事をしながら、同じことをくり返し考えていました。

 突然、そのカンナに左の人差し指をはさまれてしまいました。つぶれた指から血がふき出し「ぼさっとしているからだ、バカ者!」と、どなられながら、近くの病院へ走りました。

 必死で押さえつけても、したたり落ちる血に目の前が真っ暗、チラチラ星がとんで、やっと病院の玄関にたどり着いたとき、気が遠くなってしまいました。気がついたら診療室のベッドの上なのです。

 治療していただいて、アパートへ帰ったのですが、指の痛みは激しくなるばかりで、私はどうしたらよいのだろう、と思うと、涙がこぼれてしまいました。

 こんな事もあって「おまえは家庭にはいった方がよい」と社長にすすめられ、主人だけが勤めることになったのです。

 そろそろ主人が帰る時刻だから夕食の準備をしなければ、と思っていたときです。

 勢いよく戸が開いて、主人がとび込んできたかと思うと、
「別れるなんていやだよ。何のためにあんな製作所へ行ったのか‥‥。ひどい!」
と、泣き出してしまいました。社長やまわりの人たちが、
「アイヌなんかだめだから、別れてしまえ‥‥。」
といったとのことです。

 私には、思い当たることが、次つぎと浮かんできました。

 東京では、主人の親たちが、私たちをさがしている、とのことです。主人はそれを百も承知です。社長は、それを知ってか、何度も両親の住所を教えるようにといいましたが、主人は、うなずくだけで過ごしてきました。
「アイヌなんかと別れてしまえ!」
といった社長のことば、これも私にはわかるような気がします。なぜなら、主人のすぐれた技術と手早い仕事振りが、製作所ではどうしても必要だったからです。

 しかし、このことばは、主人の心を深く傷つけてしまいました。
「あんなところへ、もう勤めない、行きたくない。」
と、翌日から仕事を放棄してしまったのです。

 後になってわかったことですが、社長は、「アイヌにお金を貸したが、なかなか返さない。こんなことからアイヌに対する不信感が強くなった」と話していたようですが、これはまったく立場が逆で、子どもも多くて生活に追われていたころのこの社長を見かねて、当時、五千円もの大金を理事長が貸してあげていたということです。

 主人と私は、いっしっしょうけんめい話し合いました。
「同じ苦しむなら、お金の方がいい。もう一度、先に勤めた組合に戻ってやりなおそう。そして、機会をみて独立しよう。そのために、少しづつでも材料や機械を揃えていこう。」
と、決めたのです。

 再び木彫組合に戻った私たちは、相変わらず給料未払いのつづくなかで働き、休みの日には自分の実家の牧場へ行っては、木彫りの木材を取り、ミシンノコも手に入れました。

 彫ったペンダントは、札幌の民芸店をしていたNさんの所へ持って行き、いい値で買っていただきました。

 このころから、貧しかったけれど、楽しく充実した毎日となっていきました。

 着ているものが切れるとその部分を手まめに縫い、下着が全体にいたんでどうしようもなくなったものは、座布団の中身に納まりました。

 日々の食事も、行商から最も安い魚を求め、煮たり、焼いたり、干したり‥‥。大根は、よく洗ってそのまま大根おろしに、お肉のかわりに切出しを買って、ジャガイモやキャベツといためたり、食パンのみみなどは安くて量が多いのでよく求めました。

 海岸が近いことから、主人は隣の家から釣りザオを借り、昼休みを利用しては、アブラコや小ガレイなどを釣ってくれ、これも夜のささやかな食卓をかざりました。


 年月の経つのは早いもので、観光地阿寒に住んで五年になります。

 主人と知り合ったのも、この阿寒湖でした。当時の思い出が、今もあっちこっちに残っていてうれしいものです。

 昨年、長女が誕生!泣き虫の娘に振り回されながら、母として、妻としてのしあわせをかみしめています。

 私たちは、自分にいい聞かせます。

 こうした苦しみの陰に、あたたかく見守ってくださった人の多かったことを‥‥。


*** 1 今日まで生きてきて

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