32. 我らシャクシャインの血をひくアイヌなり! 牧場主 五十三歳

 北海道の南岸、太平洋に面した日高地方のほぼ中心、静内町の市街を一望に見下す真歌の丘に、わたしたちが敬愛する同族の英傑”シャクシャイン”の像が建てられたのは、昭和四十五年(1970)九月のことでした。

 アイヌのことを知らなくても、シャクシャインの名を聞いた人は、全国でも数多いことと思います。

 シャクシャインは、今から三百数十年前に、この静内のコタンに実在した酋長です。

 シャクシャインが生まれ育った時代というと、天然の宝庫である野や山、川、海の資源は徹底的に和人に乱獲され、アイヌはただ単に使役に甘んじなければいけない状態でした。春、夏、秋と働かされ、自分たちの食べ物すら確保できず、生活に役立つ報酬もなく、欠けた什器や一椀の酒が与えられるのみでした。冬の訪れとともに、アイヌを待っているのはウエと疲労、そして、まだ経験したことのない和人からうつされた病魔の苦しみであったといわれています。

 また、このころからアイヌ同志の争いも数多く見られるようになりました。生活苦から起こるものばかりです。

 シャクシャインは、このような姿に心を痛めました。

 シャクシャインは、松前藩にへつらうことなく、あくまでも対等な立場で権利を主張してきました。しかし、その主張はいつも無視され、ついに寛文九年(1669)、アイヌ民族の独立と尊厳のために、アイヌ自らの道を決する争いをいどんだのです。

 戦局は、鉄砲という武器の前に利あらずで、アイヌの歴史上空前絶後の北海道内各コタンを網羅した連合軍は、国縫まで攻め入りながら、敗退せざるを得ませんでした。

 戦いに敗れたシャクシャインは、和睦の席で謀殺されたといわれていますが、わたしたちの祖先はその戦いの様子や英傑の最後を、人知れず語り伝えてきたもので、わたしも、フチ(祖母)やエカシ(祖父)からよく聞いたものです。

 「決してシャクシャインの血筋だということをいってはいけない。もしわかったら皆殺しにされる」ということばを必ず、聞かされたものでした。いかに当時の松前藩が、シャクシャイン一族をはじめアイヌを徹底的にいためつけたか、これひとつでも想像ができます。

 しかし、わたしたちは、ここで誤った考え方をしてもらいたくないことが一つあります。それは、アイヌは少なくとも和人を信じ尊敬をもって暮らしてきた時代があったということです。

 和人が北海道にはじめて足を入れたころは、争うことなく、シサム(隣人)として信頼しあうことができたのですから。

 もちろん、シャクシャインとて例外ではありません。信頼しようという気持ちは大きくあったのです。しかし、その気持ちも、和人の日増しに多くなる権力支配の残酷さを目の前に見せられたのでは‥‥。

 だまって和人のいいなりになるか、それとも、カムイとともに生きてきたこのアイヌモシリ(アイヌの国)を守り、多くのウタラパ(同胞)のしあわせの回復のため、民族自決の戦いを起こすか、シャクシャインはじめ、そのことにあたった多くのアイヌは筆舌につくしがたい悩み苦しみの果ての、起こさざるをえなかった行動と考えてほしいのです。

 信じきり、尊敬さえしていた和人から報いられた人間無視の返礼は、あまりにもアイヌにとって信じがたく、迷いに迷いぬいたものだったのです。

 シャクシャインは平和を愛し、ほんとうの人間平等を訴えてきた人なのです。

 徹底的にうちのめされた我らアイヌの先人たちは、シベチャリのチャシ(砦)で、松前藩の申し入れを協議しました。

「償い物をそろえれば命を保証する」という条件については賛否両論です。
「必ず和人はアイヌを殺すに違いない。だから最後まで戦うべきだ。」
と、主張したのは、越後生まれの庄太夫という和人。このコタンに住むうちにシャクシャインの娘ムコとなり、アイヌ名タットインと名のった人ですが、この人を中心に半数をこえました。

 しかし、シャクシャインは、沈痛な面持ちで、
「我々は、もうこれ以上尊い人間の血を流してはならない。いくらシサムであっても、同じ人間、しかも我々よりも進んだ文化をもっている人間、この場になって、我々をだますことは決してない。」
と仲間を説きふせ、その軍門に降った、ということです。

 アイヌの興亡をかけたシャクシャインの最後の信頼も、みごとに砕かれ、彼をはじめ十数人の幹部は、ひきょうな手段で殺されてしまったのです。

 その日は、十月二十三日です。そして、翌二十四日は、悲願をこめた最後のとりでのシベチャリのチャシが、あとかたもなく焼き払われてしまったのです。

 それ以来三百年余、祖先の血と汗と涙を吸ったこのチャシは、柏の木立の中に門壕跡を残し、時の流れをきざんできたのです。

 わたしたちは、この悲しい祖先の歴史をいつも思い起こしつつ、あるときは自宅で、あるときはコタンカムイノミ(部落的な礼拝)で、ひそやかに祈りつづけてきたものでした。

 昭和四十二年(1967)、北海道は数多くの開道百年記念の行事を組み、北海道の輝かしい発展を祝いました。しかし、その礎となった我々アイヌの祖先に対しては、依然として何らのかたちも示されませんでした。

 昭和四十四年(1969)、ここ静内も、開町百年を迎え、全町あげての祝賀行事が組まれていきました。しかし、アイヌに対する取り扱いは触れず関せずのままでした。

 この年の初夏、わたしはある知り合いの家で、心休めのさかずきをかたむけながら、ふと、こんなことをもらしました。
「静内開町百年というけれど、百年も二百年も前から我々ウタリがこの町に住み、和人がはいってくる前に歩く道をつけ、土地の名をつけていた。明治四年、稲田藩の入植のころは、アイヌが三分の二、和人が三分の一であったという。それなのに、百年というのは、まことにさびしい限りだ。和人の力はそれなりに認めるとしても、我々には、アイヌの興亡をかけた英雄シャクシャインがいるではないか、この機会に何とかして、我々の先人の偉徳を顕彰することができないだろうか。あの真歌の丘に、シャクシャインの像でも建てたいものだな‥‥。」

 このわたしのつぶやきは、わたし自身がおどろくほど人びとの共感を呼びました。
「これは、ぜひ、実現すべきだ。我々は、もっとも身近にあって、たいせつな先人の功績を見失っていた。何とかして実現しよう。」

 友人たちはそういってくれ、数か月ののちに”シャクシャイン顕彰会発足準備委員会”がつくられ、本格的に運動の母体づくりに取り組みました。

 四十四年九月のはじめ、多くの同志を集めて第一回の総会が開かれ、正式に”シャクシャイン顕彰会”が誕生しました。

 当面の事業として、シャクシャインおよび一族のイチャルパ(供養祭)の開催、シャクシャイン像建設の運動、シャクシャインおよび先人に対する資料の整備等が決められました。

 とくに、わたしたちが強く主張していたのは、像そのものの立派さより、そこにこめられた人間平等のねがいと、平和協調であり、先人への顕彰の精神でした。

 北海道の数限りない発展の中で、多くの先達者が偉大な功績を残してくれました。そしてそれは、さまざまな形で顕彰されてきていましたが、アイヌに対する顕彰という独自な運動は、一度も実現しませんでした。

 わたしたちは、この史上初の運動のために、何度となく会合をもち、具体策をねりました。はじめは何か形だけでもと考えていた像の規模が、だんだんとふくれあがり、ついに四メートル余りのプラスチック像という形で実現されていきました。

 ウタリはもとより、和人もかつてない高額の寄付を快くよせてくれました。わたしたちの仲間は、遠く阿寒、釧路、十勝と、この運動を呼びかけて歩きました。そして、全道各地のウタリは、こぞってこの運動に参加してくれました。台座に埋められた十勝石は、はるばる十勝のウタリがもってきてくれました。台座の玉石は、豊畑小学校の六年生が集めてくれました。老いたるフチは、少ないふところから、せめて供えものをと寄付してくれました。製作者の竹中さんは、相当の赤字を背負って予想以上の大立像を仕上げてくれました。同族および、この抗争で命を失った人びとの霊を慰めんとするユーカラの塔も、十四メートルの高さで青空にそびえ立ちました。

 ウタリも和人も、いっしょうけんめいにこの運動をすすめてくれました。それは、抗争のなかった五、六百年前の和人とアイヌとの人間愛そのもののような気がして、わたしは目頭が熱くなったものでした。

 しかし、その間、さまざまな問題も起こりました。
「今さらそんなことを。」
と、同じウタリにきつく叱られたこともありました。
「しょせん、見せ物になるのだからやめろ。」
と、強く反対もされました。

 資金が思うように集まらず、やりくりするために、主だった役員が自分の金を出し合ったりもしました。和人の役員は数日も仕事をさき、たくさんの寄付を集めてくれました。

 こうした運動の中で、わたしは、ほんとうにこの仕事の大切さを知ることができると同時に、人間平等の本質を考えることができました。

 昭和四十五年九月十五日、雲一つなく晴れた初秋の青空が、真歌の丘の上に澄みわたっていました。

 この日のために、遠く阿寒、釧路、帯広、十勝本別、白老、鵡川、平取、新冠、そして東京にいる若者たち、みんな自分のお金で、二日も三日もさいて、集まってくれました。在町の和人も多数来てくれました。静内町も祭典の費用を出して応援してくれました。

 しいたげられつづけてきた我々アイヌに、北海道、いや日本の歴史はじまって以来のほんとうの価値を見出してもらえたのです。そして、わずか数か月のうちに、北海道のウタリの心は、この真歌の丘に集結したのです。

 小学校六年生のM君、Tさん二人の手により除幕がなされ、祈りとねがいをこめたシャクシャインの英姿は、青空にくっきりと浮かびました。

 風をはらんだカッコロ(マント)を背に、エクンネクワ(山杖)を右手にかざし、神の祈りを聞くシャクシャインの姿‥‥。

 わたしたちは、しらずしらず熱い涙が流れてくるのをとめようがありませんでした。

 豊岡小学校のHさんは、クラスを代表して、その像の前でつぎのような詩を朗読してくれました。

  シャクシャインに捧げる

 広い太平洋と豊かな母なる川
 シベチャリをのぞむチャシコツにこうしてもまた秋風が吹く
 数百年むかしとかわらぬ潮の香と秋草の中に
 今、民族の英傑シャクシャインは立つ
 
 思い起こす数百年のむかし
 海の幸、川の幸、山の幸
 天の恵みをうけながら自然を尊び
 平和にくらしていたアイヌの人々
 北海道の持ち主

 とれたえものは仲良くわけ合い
 美しい心と強い信頼に結ばれ
 差別というものを知らなかった人々
 しかし
 この平和が崩される日がきた
 差別のない世界に和人がはいってきてから
 平和と信頼は崩れ、苦しくたえしのぶ生活がはじまった
 うたがうことを知らず
 権力を知らぬ素朴な人々の心に
 えんりょなく深々と傷をつけつつ
 和人の支配はすすめられていった
 わたしたちは、郷土の歴史を深く学ぶ中で
 その苦しみの中で立ちあがったシャクシャインのいたことを知った
 北海道を守るため
 人間の権利を守るため
 松前との戦いを決意したシャクシャイン
 正しい怒りにもえたシャクシャイン

 アイヌの人々の苦しみを集めた戦いは、おしくも力の前に敗れたが
 その心の中の怒りと叫びは今なお、人びとの胸をうつ

 苦労したでしょう、ひどい差別の中で
 ずい分長い間、がまんしつづけたことでしょう
 けものをとる弓を、魚をとるやりを武器として
 戦うことを決意したときは
 なおいっそう悩み、苦しんだことでしょう

 千六百六十九年十月二十三日
 あなたちの最後の望みも断たれ、ついに命をすてたその日から
 差別は、ふだんの生活の中にしみついてきたことでしょう
 悲しい思い出としてあなたを偲びつつも
 ただ、だまって生きぬいてきたアイヌの人々
 あなたの悲しみはみんなの胸の中に生きていながら
 それをあらわすことができず過ぎた三百年
 長い間、ほんとうに長い間
 あなたの魂をとりもどすことができなかった
 ごめんなさい

 今ここに立つシャクシャインの、この高い像の中に
 アイヌの血が
 日本人の心が
 脈うっているのを感じる
 その雄々しい姿
 その優しさに溢れた父のようなまなざし
 あなたはほんとうの平和をねがった
 民族の英雄であった
 そして
 シャクシャインは叫ぶ
 立ちあがれ、この大地に、この広い世界に
 この北海道をきずいた者として胸をはって生きよ
 大きく、大きく
 心ゆたかな人間としてどこまでも伸び行けと
 ほんとうの平等、ほんとうの人間同志の結びつきを
 たいせつにして日本国民として伸びて行けと

 今ここに生命をふき返したシャクシャインの像は
 人々のほんとうの結びつきを心から約束したその証拠として
 いつまでも
 いつまでも
 真歌の丘にそびえたつのだ
 (豊畑小学校六年はぐるま学級一同)

 おばあさんの奏でるムックリ(口琴)の音にのって、子どもたちのつくってくれた顕彰の詩は、参加した人びとの心の奥深く浸み込んでいきました。
「そうだ、この子どもたちの時代には、どんな差別もあってはいけない。これからの社会の中で、我々が長い間、歴史にぬりこめられた差別は、いかなる人種にも、階層にも存在してはならないのだ。」
と、わたしは心の中で何度となく叫んでいました。

 このあと、百名に余るウタリの手により、古式そのままに先祖の供養祭が行われました。

 青空のもと、コロクル(祭主)によるおごそかな祈り、その涙ながらの祈りをおえ、今はなき先人の霊安らかなれと、北海道のウタリのポロリムセ(大舞踏)が、いつまでもつづけられました。

 静内の片すみで起きた一つの運動は、今や全道ウタリの心の結束のあらわれとなり、また、郷土発展のかくれた偉徳を掘りおこし、認識させる結果となりました。

 わたしたちは、この像をはじめ、これから永久につづくであろう顕彰の運動こそ、人間平等のねがいの運動であると考えています。

 今なお、生活におわれながらウタリの多くは、他の地方のウタリとの交流がほとんどできない状態でした。

 昨年のイチャルパ(供養祭)には、二百人近いウタリが北海道各地からかけつけてくれました。古老の踊る弓の舞、剣の舞の中に、我々の祖先のたくましい生命がよみがえってくるのでした。フチが唄うウポポの中から、平和なむかしのコタンのたたずまいが浮かんでくるのでした。

 アイヌに対する認識は、本州方面ではまったく乏しく、依然として未開原始の生活をしているかのように考えているとか聞きます。

 わたしたちは同じ日本人なのです。そしてこの日本をこよなく愛し、この国土を限りなくたいせつにしてきたのです。

 わたしたちは、シャクシャイン運動を通し、人間の平等を訴えてきましたが、一日も早く同じ現代に生きる人間としてとらえていただきたいと考えています。

 わたしは今ここに、我らシャクシャインの血をひくアイヌなり、と声を大にして叫ぶことができます。それは、日本人としてのほこりであり、アイヌであるほこりなのです。人間平等をねがい、信じてきたアイヌのねがいを、これからもたゆみなく訴えつづけながら、わたしは、この運動によって学んだ信頼を、より大切に育てていきたいと考えています。

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