37. 観光コタンに勤めて       会社員 二十五歳

 ”アイヌ”ただこれだけのことで、なぜ、差別されなければいけないのでしょうか。毛深い、ということは、いけないことなのでしょうか。

 こんなことが、自分自身におおいかぶさってくるとき、わたしは苦悩します。そして、この苦しみ悩みが、私一人でなく多くのウタリたちの苦しみであり、悩みであると自覚するとき、わたしはじいっとしていられなくなります。

 どうにかして、この差別をなくさなければ‥‥。そのためには、多くの人たちに、わたしたちウタリの胸の内を、そして現実の姿を訴えなければ‥‥。このようなことからわたしは、白老の観光コタンに勤めることにしました。

 白老のアイヌ部落といえば、今では国際的にまで有名になり、北海道の観光コースではかかせない一つに数えられて、シーズンになると、多くの観光客が訪れます。

 わたしは、このコタンに二年間勤めたのですが、そこで体験した多くの”差別・偏見”について記してみたいと思います。

 観光客といっても、一概にはいえませんが、本州方面から訪れる人たち(ほとんどがおとなで、夏休みの時期になると学生が多い)は、わたしたちに、つぎのようなことを聞いてきます。

「日本語、話せますか?」
「日本の文字、読めますか?」
「なにを食べているのですか?」
「こんなわらぶきの家で寒くありませんか?」
「この部落より、ほかへ出たことがないの?」
「ここは観光地だから、ショーが終わったら山の中の家に帰るんでしょうね!」

 このような質問の中で、どの人もといってよいほどに「日本語、話せますか?」とたずねてくるのです。

 本州の人たちは、わたしたちアイヌをどこの国の人間と思っているのでしょうか。日本人とは思っていないのでしょうか。

 わたしは、はじめ、このような非常識な質問に、目をつりあげ、
「あなたたちと、同じですよ!」
と、怒り狂いたくもなったりしました。

 こんなことがありました。

 わたしがアイヌ衣装を着て、チセ(家)の横にある椅子に腰をかけていると、学生たちが四人やってきて、わたしといっしょに写真を撮りたいというようすです。わたしは知らぬ振りをしていると、その中の二人が、身振り手振りのジェスチャーで、カメラをかまえたり、ポーズをとってみたりの大熱演‥‥。

 わたしが、素知らぬ顔をして応じないでいると、
「弱ったなあ。日本語は通じないし、あきらめようか、残念だけど‥‥。」
と話し合っています。しかし、あきらめきれないのか、わたしを見ては、ぽつんとしているのです。

 わたしは、学生たちに近づき、
「どこの国のことばでお話したらよいのですか。日本語、英語、ロシア語、それとも、スペイン語!」
と、話してやると、相手はまったく驚いたようで、
「日本語、話せるのか!」
と、目を白黒させている状態なのです。

 このようなことは、一日も早く、なくなってほしいものです。

 ところで、わたしたちと同じ北海道に住む観光客はどうか、となると、本州の人たちと見る目も変わってきます。また、大人ばかりでなく、小・中学生も多くなります(修学旅行、見学旅行で訪れる)。

 この人たちから耳にすることばは、
「アイヌコタン、こんなところでも金をとるの。」
「アイヌ、インディアン、ホウ!ホウ!アイヌ、ニホンゴ ハナセマスカ?」
「アイヌって、イヌなんだ。」
「野蛮人だ!アイヌは。」
と、いうようなことです。

 本州人の場合は、まったく知らないことからの興味の発言(もちろん差別感を含んだ)ですが、北海道人の場合は、差別意識を表面に現したことばとして、わたしたちに向けられてくるのです。

 アイヌは差別するもの、というものの考え方が、今でも根強く生きているのです。そして、その考えが子どもたちへ‥‥と。

 わたしが、コタンへ勤めて十日目のことです。

 千歳へ駐屯した自衛隊の人たちが、団体で見学にやってきました。

 アイヌの説明やリムセ(輪舞)が一通り終わって自由見学になったときです。

 わたしがチセにはいって座っていると、みんなから班長と呼ばれている人を先頭に数人が、勢いよくはいり込んできて、わたしの前にくるなり、
「アイヌは毛深いだろう。おまえはどのくらいだ。」
といいながら、いきなり手をとり、着物の袖口をかきあげるのです。他の隊員は、ただ見ているだけです。それも興味の目で‥‥。

 わたしは、予想もしていなかった突然の出来事に、手をとられたまま震えていましたが、怒りとくやしさがこみあがり、
「自衛隊って、こんなことをするのですか。自衛隊って、わたしたち人間にたいして、このようなはずかしめることをしてもよいと教えているのですか。」
とにらみつけながら叫びました。

 手をとっていた班長は、苦笑しながら、
「まあ、そんなに怒るほどのことでもないんでないか。」
といって、チセから出て行きました。

 わたしは勤めるとき、観光客からのべっし的なふるまいを聞いて覚悟はしていましたが、まさかこのようなことをされるとは‥‥。これでは、基本的人権も、平等もあったものではありません。

 わたしは、踊りと写真モデルの仕事でしたから、その合い間の時間を利用して、多くの若い人たちに訴えました。ときには、夜通しで、アイヌのおかれている現実のきびしさを話し合い、わかってもらいたいと努力しました。しかし、そうかんたんにはわかってもらえないものです。ときには、かえって誤解さえ招いたりするのですから‥‥。

 観光用につくられたコタン、そして、そこに働く人びと‥‥。それを見て「これが現代のアイヌ」ととらえてしまうのですから。また、アイヌ衣装を着ているシャモを見ても、アイヌと思い込み、顔にひげをはやしたヒッピー族がアイヌ民芸品の店でアルバイトをしているのを見てもアイヌと信じてしまうのですから。

 わたしの訴えは、通りいっぺんの観光客には、なかなか理解してもらえませんでした。

 百人のうちの一人でもいい、わかってもらえれば‥‥、と、自分にいい聞かせ、わたしたちアイヌの叫びを口にしました。

 しかし、観光客は、そんなことになかなか耳を傾けてくれません。傾けたとしても理解しようとはしてくれません。

 わたしは、訴えることが無意味のように思え、それなら観光地に働いてもしょうがない、と考えたりしました。そんなとき、一人の話し合える人が現れ、わたしの訴えの正しさを認めて「頑張るように!」と励ましてくれました。

 わたしは、十日のうち、一人でもわかってもらえたなら‥‥、と、二年間、仕事のあい間をみて訴えをつづけました。

 しかし、振り返ってみたとき、自分の訴えのむなしさに、さらにつづける気にはなれず、観光地の勤めをやめました。

 ところで、毎日、べっし的な目におおわれながら観光コタンに働いているウタリたちは、なにもすきこのんで働いているわけではありません。

 生きていくためのお金を得るために働いているのです。差別の目に苦しみながらも、懸命に耐えしのぎ働いているのです。また、観光会社は、わたしたちの貧しい生活を知り、それをよいことに、安い賃金で長い時間を強要します。踊って、モデルになって、といえばかんたんそうですが、夏の暑いときなど、一日中外にいるだけでも大変なことです。ですからよく、体が弱り倒れてしまう人も出てくる状態です。

 わたしといっしょに働いた口もとに入れ墨のあるおばあちゃんは、遠く家族と離れ、シーズンの間は、その観光地で自炊生活をし、その間、二度ほど孫の顔見たさに帰るということです。この不自然な姿を知るだけでも、アイヌのおかれている生活の苦しさが、わずかなりともわかっていただけるのではないかと思います。

 わたしたちアイヌは、差別・偏見の苦しみ、それに貧困の苦しみ、と、二重、三重の苦しみをかみしめながら今日を生きています。そして、その苦しみの中からいつも叫んでいることは、
「アイヌは人間なんだ。」
「人間は、すべて平等なんだ。」
ということなのです。

 差別のない社会、この社会こそ、人間が人間として生きられるほんとうの社会であると信じてやみません。

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