17. 壁               会社員 二十四歳

 ぼくは、中学を卒業すると、すぐに札幌へ出て、S印刷所に勤めた。
学校時代は「アイヌ」と面と向かっていわれたことも、いじめられたという記憶も少なく、また自分自身、アイヌであることに、たいして抵抗も感じていなかったようである。

 ぼくがアイヌの血をひいていながら、他のウタリたちと比べて、シャモ的であったからかも知れない。というのは、ぼくの父にはシャモの血が流れており(祖父はシャモで、祖母はアイヌ)母はシャモで、ぼくは母の方に似ている、といわれているからだろうか‥‥。

 だから、印刷所に勤めていて、
「おれ、アイヌだぞ。」
といっても、はじめは「まさか」とさえ口にする者もいるぐらいだった。印刷所の連中はアイヌといえば、熊のようなものという連想から始まるらしい。

 ぼくは、ある日、喫茶店に一人の女性をさそった。

 その女性は、ぼくが時どき印刷物を届けに行く、Y社の事務員である。ぼくは、何度か顔を見合わせているうちに親しみを感じ、勇気をふるって誘ってみたのだった。

 夕暮れどき、コーヒーをのみながら、二人は話に花を咲かせた。

 ぼくにとって、生まれてはじめてのデートだった。

 実はこのたのしい話し合いの中で、ぼくはのどにつかえるものを感じていた。それは、自分から「ぼくはアイヌだ」と、いえないことだった。でも、彼女の方から「アイヌ?」とたずねられたら「そう!」と答えることはできたのに‥‥。

 普段、あまりアイヌを意識しないぼくなのに、彼女を前にすると、必要以上に意識しているのだ。

 それは''いくら二人が愛し合っていても、一人がアイヌであるとき、必ずといってよいほど、悲しみがおそってくる''という現実があるからだった。

 ぼくは彼女に嫌われたくなかった。

 彼女がアイヌである自分を知ったら、もしかして嫌うのでは‥‥、という不安が心の底にあるからだった。

 その後、一週間に一度は彼女と会い、親しみを増していった。そのたびにぼくは、''きょうは話そう''と心に決めながらも、やはり彼女の顔を見ると、そのことばは、声とならなかった。そんな自分が、とても悲しく苦しかった。ときには''アイヌでさえなかったら''と自分の血をののしったりもした。

 ある土曜日、ぼくは''きょうこそ!''と心に堅く決めて、いつもの喫茶店に出かけて行った。

 シャンソンの音楽が軽快に流れるいつもの喫茶店で、彼女は待っていてくれた。

 向かい合ってすわると、彼女が心配そうにいった。
「どうしたの、なにかあったの?」

 いつものぼくと、ちがうものを感じたのだろうか。ぼくは苦笑いをしながら「イヤ」と否定し、すぐ、
「ぼくは、あんたに、だいじなことをかくしていたんだ。」
と話した。
「だいじなことって?」

 彼女は、ぼくの顔を興味あり気に見つめてきた。

 ぼくには、その目が、とてもするどく感じられ、ことばがつまっていた。しかし''これではいけない''と自分にいい聞かせた。
「ぼくね、アイヌなんだよ。いままでいわないでごめんね‥‥。」

 まともに彼女の顔が見れず、下向きかげんにぼそっといった。

 ぼくは恐ろしかったのだ。このことばによって彼女の顔色の変わるのが‥‥。
「そんなこと、わたし、前から知っていたわ。何も気にすることないでしょう。」

 彼女の動じない姿に、きょうまでの重荷が、いっぺんに取り除かれた。
「ありがとう。」
と、ぼくはよろこびをかみしめた。きょうまで生きてきた中での最大のよろこびを‥‥。

 ぼくは、このとき''自分のよめさんになる人は、この人以外だれもいない''と、心に深く決めた。

 ぼくが、彼女のことをウタリの仲間に話したとき、みんなは「よかったな」とよろこんでくれたが、その後にーうまくいけばいいがなーという心配が大きく渦巻いていたらしい。このことを、ぼくの親しいY君がいってくれた。
「彼女は、ぼくがアイヌといっても、たじろぎもしなかったし、それよりか、はじめからぼくをアイヌと知っていてのつき合いなのだから!」
といって、その心配を否定した。

 彼女とつき合って、一年たったころ、ぼくは彼女の家に呼ばれて行った。
このとき、彼女の父や母にはじめて会ったのだ。父は、民生委員をしているとかで、話のわかる人といううわさであった。

 ところがだ、まさか、こんなことが起ころうとは‥‥。

 父はこういうのだ。
「娘には、小さいときからのイイナズケがあってな‥‥、君の気持ちは、わからんでもないが、友だちとしてならいいが、それ以上のつき合いはやめてくれ。」

 ぼくは意外な話に、心の中は狂った。イイナズケがいるなんて、この一年のつき合いの中で、ひと言も聞いたことがなかったのだから。

 ぼくは、彼女の顔に目をやったが、うつ向いたきりだった。
「娘を責めないでやってくれ。よい友だちとして、これからもつき合ってやってくれ‥‥。」

 ぼくは何もいわず、彼女の家をとび出した。

 アイヌだから‥‥、ただそれだけなのだ。

 アイヌだって‥‥、アイヌ‥‥。

 ぼくは、自分の高まる気持ちを押さえることができなかった。どこをどのようにして歩いたのか知らぬまま、寮に着いたのは真夜中だった。床にはいっても、一すいもできなかった。
''彼女はどう思っているのか‥‥、彼女がほんとうにぼくを愛してくれているなら、ぼくと結婚してくれるはずだ。なんでもいい、彼女と会って話し合ってみよう、本意をただしてみよう''と。

 翌日、彼女の勤める会社に電話すると「きょうは休みです」という。そのつぎの日も、そのつぎのつぎの日も、やはり「休みです」ということだった。会社にたずねてみたがいなかった。

 数日後、ぼくのところへ、彼女からの手紙がとどいた。

‥‥‥‥
 わたしは、あなたがすきです。愛しています。このことはだれの前ででも、はっきりいえます。ほんとうに。

 それでいながら、わたしは、父や母のことばに従わなければいけないのです。それはわたしが子どものころまで非常にからだが弱く、父母が、どんなにしていたわってくれたかを肌身にしみて知っているからなのです。

 わたしは父や母から反対され「親子の縁を切る」とまでいわれては、それを押し切る勇気がありません。

 わたしって、弱い女です。

 あなたを愛しながら、あなたの中にとびこんでいけないのですから‥‥。二人の愛を実らすことができないのですから‥‥。

 わたしは、ただ一つ、うらみます。

 あなたが、アイヌであるということを。
‥‥‥‥

 ウタリの仲間が心配してくれたように、ぼくはシャモとアイヌとの間にあるぶ厚い壁にうちのめされてしまったのだ。

 アイヌは日本人である。

 日本の憲法のもとに暮らしているのである。

 その憲法には、人間の平等が唱えられ、大人になれば、愛する者同志が自由に結婚することができると明記されている。

 憲法とは、いったい、何なのだろうか?

 あるとき、彼女の友だちが、ぼくのところへたずねてくれた。そして、
「愛していたのよ、あなたを。悩み苦しんだあげくに自殺を計ったの‥‥。手当てが早かったから助かったけれど‥‥。そんな彼女の気持ちをわかってほしいの‥‥。」
と話してくれた。

 彼女は、それから半年後、親のすすめで結婚したという。


***2  若者たちの苦悩

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