33. 東京ウタリの会を呼びかけて   主婦 三十八歳

 わたくしが生を受けたのは、北海道の日高地方の漁村でした。

 当時は、第二次世界大戦の戦時下で、食糧が不足し始めたために、農村地帯に移り住むようになりました。

 わたくしは、六人姉弟の三番目でした。

 わたくしは、自分がアイヌ系であると知ったのは、小学校に入学してからです。自分たちとなんら変わったところのないと思っている相手、つまりシャモの子どもたちから、わたくしをさして、
「おまえはアイヌだ、アイヌ、アイヌ‥‥。」
と、ばとうされたものでした。

 わたくしは、はじめ、アイヌとは何で、どういうことなのかを知らず、ただぼう然と立ちすくんでいたことを覚えています。

 母はそんなわたくしに、
「シャモの子どもたちにいってやりなさい。おまえたちの親たちはアイヌの地にきて、土地を取りあげた盗っ人だって!」
と、教えてくれました。しかし、このことばをシャモに向かったときには口にできず、いじめられて一人になったときに、泣きじゃくった声の中から、かすかにほとばしるだけでした。

 わたくしは現在、東京に住んでおります。六年生と四年生になる二人の子どもがいますが、この子らからは「アイヌといわれて、いじめられた」などということばをききません。また、わたくしにしても同じです。周囲の人たちが、わたくしをアイヌ出身と知らないからなのか‥‥。わたくしが自分から「アイヌ」を口にしない以上、まわりの人たちはわからないようです。主人はシャモですし‥‥。

 そんなわたくしが、過日、朝日新聞の”ひととき”欄を通して「ウタリたちよ、手をつなごう」と呼びかけました。

 その理由は、就職などのために上京し、まじめに生活している多くのウタリ子弟に、様々な形で差別がのしかかり、ゆくてをはばんでいるという現実を知ったからです。電話で、あるいは手紙で知らされるその一つ一つの差別に怒りを感じ、絶対に許すべきものではない、と考えたからなのです。

 呼びかけた内容は、次の通りです。

 私たちは、現在東京に住む北海道出身のアイヌ系の者ですが、たぶん多くの私たちのようなアイヌ系の方々が、この東京に散在していらっしゃるのではないかと思います。私たち種族は、父母のもと、北海道の大自然のなかにありましたが、他面、実にさまざまな差別のもとに苦しんでまいりました。いまだに就職や結婚問題などで、数えればきりがありません。

 差別は、私たちアイヌ系にかぎられるものではないでしょう。形こそ違いますが、身の回りをとりまいている実に多くの差別があります。しかし、もう一度、アイヌが種族の違い、つまりアイヌだからということで独特の差別をされたのは何であったかを見つめられるのなら、その差別されたことによる苦しみの真の原因をとらえられるのではないか、それには同胞との親ぼくを深めあい、共に語りあえるならば、と望みを託して筆をとりました。

 私たちにとって許しがたい長い間の差別に対して、多くの先輩同胞が何度か立ち向かいました。戦後、民主社会に移ってからもこの問題と取り組まれましたが、力の輪が大きくならないまま、深くもんもんとくすぶっていました。それが今ここにきて再度の立ち上りをみせ、 現在、北海道で実を結びつつあります。それはウタリ協会であります。これは北海道だけのものではないと思い、ここに私たちは東京ウタリ会をもちたいと願い、呼びかけます。そして、他でもさまざまな差別に関心をもたれ、それに取り組んでおられる多くの方々と共に考えてゆけるなら、何か糸口をつかめ、ひもといてゆけるのではないかと考えております。そうした輪により私たち同胞の真の解放ができるならば、こんな大きな喜びはないと存じます。ウタリの皆さん、私たちはあなたとの「語り合い」を望みます。どうぞご連絡ください。
(1972.2.8付)

 この投書が掲載された日の朝早くから夕刻まで、わたくしの家の電話のベルは鳴りつづけました。

 ご意見を寄せられたほとんどは女性で、主婦が圧倒的でした。

 その一例として、東京の府中市に住む、ある若い婦人の声をあげてみるとつぎのようです。
「わたしは今、子どもを幼稚園におくりとどけて帰り、新聞を読んだところですが、あなたがたアイヌに対して、こうした差別があるなどとはまったく知りませんでした。わたしは、アイヌを知らずに東京で生まれ育った一主婦ですが、自分が日本人としてはずかしさを感じました。なぜなら、日本の歴史においても現在も、弱いものに対してはおそいかかり、いじめぬくのですもの‥‥。実になさけない人種だと思っています。地球上の人類が、ひどいめにあったり、あわせたりすることなく仲良く暮らせるような日は、まだまだ先のことでしょう。でも、そうした日が、一日も早くくることを祈っています。どうぞあなたもおからだをたいせつに頑張ってください。」

 さらに、この婦人はこういうのです。
「この記事を読んでいると、涙がとめどもなく流れました。ただただ驚きでした。わたしにできることがありましたら手伝わせてください。」

 婦人の声は、終始涙にぬれた驚きと悲しみのものでした。また、その中に、あたたかい励ましもありました。

 翌日からは、数通の手紙が連日寄せられ、現在では百通にもなりました。今日でもなお、励ましのあることばをいただいております。

 このような手紙、電話、直接訪ねて下さった人びとの中で、部落出身の方、在日朝鮮人・中国人の方々も深い関心と激励、連帯を呼びかけてくださいました。

 このようにして、一人でも多くの人たちと差別の存在する社会をみつめあい、問題の本質をほりさげていくことなのだ、と、わたくし自身、しみじみと考えました。

 ところで、わたくしは、自分と同じウタリたちへ呼びかけたはずですが、そのウタリからかえってきた声は数名にすぎません。なぜでしょう‥‥。

 わたくしは、冷静に受け止めなければならないとと思いました。

 この東京都内、あるいは周辺でも、かなりの同胞が散在しているのですが、にもかかわらず‥‥と。しかし、わたくしはこの問題を決意したときから、こうなることは予想しておりました。

 もし、あの呼びかけの記事を、わたくし以外のだれかが出されたとして、それをわたくしが読んだとしても「わたくしはアイヌです。どうぞよろしく」とは、名のりをあげないだろうと思うからです。なぜならば、今までアイヌ解放を掲げて立ち上がった先輩同胞による何度かの姿を見ているからです。その結果は、いつも体制の波に押し流されるように、あきらめにも似た形で、消えてしまうことが多かったからなのです。

 しかし、この度のわたくしの呼びかけは、現在から未来へ向けて、今後の展望を創造していくことなのだ、という決意からの出発です。多くの同胞と、差別に戦う多くの方々とともに歩んでいくことを信じたからです。

 差別は、わたくしたちアイヌだけの問題ではありません。形こそちがえ、もっと多くの人たちが差別と偏見に苦しんでいるのです。そして、その中から立ち上がっているのです。

 もちろん、わたくしたち同胞も、北海道においては、現地の問題を掲げて立ち上りをみせています。

 人間が人間としてのほこりをもち、平等な中で平和に暮らせる日まで、わたくしは頑張っていきたいと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?