04. 暗闇の中から灯火を       会社員 四十四歳

 わたしは昭和三年(1928)、英雄シャクシャインが最後の城として滅びた真歌のチャンコツ(砦跡)から、四キロメートル東のウセナイで生まれ、ここ四十年、静内で生活しているアイヌ系日本人です。

 わたしが生まれた翌年、父は海藻をとる舟の事故で亡くなり、二人の姉、一人の兄とわたしを、母は育てるのにそれは夢中でした。

 それだけに、貧乏は絶対つきもので、米のご飯は、年越しの夜、小さい鍋で炊いて、五人でちゃわん一ぱいずつ分けて食べるのです。これが一年中で、一番たのしいときでした。このたのしい食事のとき、古いお膳に少しばかりのおかずを小皿に入れ、一人ひとりお膳にすわらせて、母は、
「おまえたちには父がいないから、よその家のようにじゅうぶんではないけど、おとなになったら人に負けないようがんばってよ。おまえたちの父は大酒のみで、ずいぶん苦労したから、大きくなっても酒のみにはならないでよ。来年もよい年であるように、神様にお祈りしましょう。」
といい、わたしたちはとの様になったような気持ちで、ごちそうをいただいたものです。

 わたしが六歳になり、小学校に入学する前日、四つ上の兄から、
「おまえの名まえは、こうして書くんだぞ。」
といわれ、頭をなぐられながら半日ぐらい名まえの文字を教えられたものです。

 母が、町の商家の子どもの着古したはかまをもらってきて、わたしにはかせ、入学式に連れて行ってくれた記憶が、今も生々しく残っています。

 わたしたちアイヌ系の子どもは、この日から苦しい日々が始まるのです。

 授業が終わり、教室を出て家への帰り道、よく「アイノ、アイノ」とバカにされるのです。まだ一年生ですから、アイヌとはっきり発音ができないのか、アイノというのです。

 母は、毎日、
「シャモ(和人)の子どもに負けんように、勉強すれよ。」
と、くり返しました。

 ある日のこと、三人のシャモに「アイヌ」といわれ、後からきた兄がこの三人をつかまえ、がんがんやっつけて泣かせました。そのときわたしは、うれしくてうれしくて、
「アンチャン、いいあんばいだったな!」
と、兄をほめ、心をはらしたものです。

 ところが翌日、学校での休み時間のとき、兄は大勢の上級生につかまえられ、なぐるけるの暴行をうけているのです。わたしは、遠くから見ているだけで助けるすべもなく、ただ、授業開始のベルが鳴ってほしいと、祈っていたものでした。

 兄はまもなく、学校をやめてしまい、農家の雇いとして働きにでました。

 それからのわたしは、アイヌといわれても小さくなって逃げるだけで、なに一つ反抗することもできず、学校では、つらい毎日を過ごしたものです。
 朝、教室にはいって先生が出席簿を読みあげるとき、はじめに和人の子どもを読み、その後にアイヌ系の子どもたちです。このように、学校教育の中に公然と差別はあったものですから、子どもたちのアイヌ差別は、ことばにいいつくせぬものでした。

 母は毎夜、わたしに、
「きょうは、どこ習ってきたの。本を読んできかせて‥‥。」
というので、習ってきた教科書を読んでやると「ホーウー」と合づちを入れて聞いていたものです。

 祖母も、わたしが小学校三年生のころになると、
「おまえ、そろばん、できるか。シャモは頭がよく、そろばんができるから、親方になったり、金持ちになっているんだよ。おまえ、いっしょうけんめい、勉強するんだよ。」
といったものでした。

 学校生活では苦しい経験ばかりですが、しかし、貧しいけれども家での生活にはなつかしい思い出があります。

 たとえば、冬の夜の長いときです。

 近所のばあさんたちが集まって、むかし話しを語り合うのです。これがユーカラ(物語)の語り合いです。二夜も三夜も明かしてです。

 ばあさんたちが帰った後、母に日本語になおして聞かしてもらうことが、楽しい家のだんらんでした。

 集まってくるばあさんの中で、夫の仕事のため函館、釧路、旭川と転々と歩いた日本語のじょうずなフチ(ばあさん)がいて、むかし話しも豊富で、わたしは大すきでした。口も手も大きく入れ墨をし、真白い顔で目をつむり、たき火の回りにすわったわたしたち兄弟に語りつづけるのです。そのむかし話しの中で、シャクシャインの戦いの伝説も聞かせてもらいました。

 神を崇拝するわたしたち民族は、草も木も鳥も虫も皆、神としておがむことを教えられ、事あるごとにエカシ(長老)がきて、カムイノミ(神への祈り)をしてくれました。

 小さくてもわたしたち男の者は、この手伝いをさせられたものです。チセコルカムイ(家の守り神)、アバサムンカムイ(玄関の神)に、お神酒をつける役をいいつけられ、高い所にまつってあるので、背伸びしてパスイ(神箸)でイナウ(御幣)に酒を供えたものでした。エカシにきてもらえないときは、母がわたしにカムイノミをするようにといい、わたしは、ツキ(神のおわん)とパスイを持ち、母がうしろで小さな声で祈りのことばをアイヌ語でいうと、それを大きな声で唱えるのでした。

 アイヌの宗教では、女性は老女にならない限り、絶対、直接、神に祈りのことばを唱えてはいけない、という習であるからです。

 わたしの家のすぐ近くに、静内川が青々と海へ流れています。ですから、秋になると鮭が群れをなして川へのぼってきて産卵するのです。

 いつもこのころになると、朝早く起きて川原へ行き、メス鮭が疲れて川岸にいるのを見つけて追いかけ、手づかみでとって家へ持って帰りました。

 母や祖母は「ハババ、ハババ(よくやった)」とこおどりして喜んだものです。

 しかし、これは完全な密漁です。でも、子どものころは、なんの罪意識もなく、毎朝、川へ行くのが楽しみでした。

 ある日、川を見て家へ帰る途中、大きなメス鮭二匹が草の中にあり、それを家に持ち帰りました。すると母は、
「もとの場所へ返してきなさい。」
といわれ、そうはしたものの、夕方になってもだれも取りにこないので、再び家へ持って帰り、一家で腹いっぱいチポルシト(スジ子のもち)を食べた笑い話もあります。

 エカシたちの話では、むかしは鮭が無数にのぼって、川の中を人が渡ることもできなかった、といい、熊が鮭をつかまえ柳の枝にぶらさげて山へ向かう姿を見た、ともいい、今は、一匹取っても密漁の罪に問われる世の中になってしまった。こんなことがあるものか、シャモは勝手なものだ、と四十年前を語り聞かされたものです。

 わたしは小学校時代、弁当を持って学校へ行けず、お昼になると約二キロメートルもある自分の家へご飯を食べに走ってくるのです。弁当を持って行くと、中身はひえと豆で、ばらばらして箸でつかめません。まわりにこぼしたりすると、
「やあ、アイヌのメシがこぼれた!」
と、シャモの子どもたちにバカにされるのです。それがいやでたまらなかったからです。

 わたしが五年生の二学期が終わるとき、学校へ行くと、わたしの机の上に新聞紙に包んだ大きなものがありました。”はてな?”と思っていると、クラスのMさんがきて、
「おまえの家で、餅ついたか。」
とたずねるのです。頭を横に振ると、
「これ、おれの家でついた餅なんだよ。家へ持って行って皆で食べれよ。」
と、やさしくいってくれたのです。

 だいじに家に持って帰り、母に渡すと、
「ヤー、白い餅をこんなにたくさんもらって‥‥。どこのニシパ(お金持ち)がくれたの?」
と、喜んでいうので、
「警察の子どもなんだよ。」
と答えると、母はさっそく、神に供えて報告しておりました。

 当時のわたしたちは、お正月に白い餅はひと臼で、あとは粟とか稲きびの餅しか食べられなかったのです。

 翌年の春、Mさんは父の転勤のため、この地を離れましたが、そのとき、
「君も、元気で勉強すれよ。」
といってくれました。

 和人の子どもでも、このようにやさしい人がおり、教室の皆がそうであったら、と、思ったものです。

 小学校を卒業して高等科一年(現在の中学一年)に進んで、間もないころです。

 朝、先生が教室へきて出席をとり終わると、
「きのう、この教室の中の者で、大変悪いことをした奴がいる。正直に、おれがやりましたとあやまって出れば、先生は許してやる‥‥。」
と、皆の顔を見まわしました。

 わたしは、だれがなにをしたのだろうと、隣の席を見たり、先生の顔を見たりしていると、
「だれもいないのか。よし、それでは今、犯人をつきとめてやるぞ!」
というと、先生は教室を出て行きました。

 皆ががやがやしていると、教室の戸があいて、先生は六年生の女の子を一人連れてきました。そして、
「いいか、きのうの犯人は、この子が見て知っているから、これからさがしてもらうぞ!」
といって、教室の端からまわり始めました。

 わたしも興味深く、女の子の姿を見つめていると、どうしたことか、わたしの前にくると、ぴたりと止まって、
「あっ、この人だ!」
と叫んだのです。

 わたしは、なにがなんだかわからない事件なので、
「違う、おれでない。おれ、なにも知らない!」
というと、彼女は、
「あんたでしょう、階段からかけおりて逃げて行ったのは!アイヌの人だったんよ。」
と、先生に向かって話すのです。近くでだれかが「あいつでないよ」といってくれることばもありましたが、先生は、
「よし、わかった。あんたは教室へ帰ってもよい。」
と話し、その子がいなくなると、
「おまえ、やったんだろう。しょうじきにあやまれ。」
と、わたしをせめるのです。
 わたしは「アイヌの人だったんよ」のひと言に、もうなにも返すことばが出ず、くやしさで涙がぽろぽろ流れ、
「先生、ぼく、なにも知らない‥‥。」
と、かすかに口にするなり、机に顔を伏せてしまいました。

 それでも先生は、
「おまえ、一時間目は廊下で立っていれ。」
と、無実の罪のわたしを、廊下に立たせたのです。

 この事件は、あとになって知ったのですが、放課後、二階にある六年生の女子の教室にだれかがはいり、一生徒のかばんを窓から裏庭に投げ捨てて逃げた、というのです。

 わたしが犯人でないことは、クラスの中でも半数以上は認めており、六年の女子にしても同じです。ただ、先生が連れてきた子は、でしゃばりで、町のボスの娘であり、先生はその近くに住んでいた、ということから、その子のことばを信じてわたしを罪人にしたのです。

 わたしはこのときほど、アイヌであることをうらめしく思ったことはありません。

 こうした事件をきっかけに、わたしは”よし、勉強して社会に出たなら、先生やあの子を見返してやるぞ!”と心に決め、いっしょうけんめい頑張りました。

 高等科二年を卒業するころ、全校生徒の学力テストが行なわれ、わたしは上位の成績をとりました。

 すると先生は、
「おまえ、だれかのカンニングしただろう。」
と、疑ってくるありさまなのです。

 この時期に、町にある道立農業学校(現在の農業高校)の先生がわたしの家をたずねてくれ、「ぜひ、この子を農校に入れてみては」と、母にすすめてくれました。しかし、家が貧しいことから、ことわるよりほかありません。この先生は熱心に、二度三度と足を運び「学資は、わたくしが出しても」と話してくれましたが、それはなりませんでした。

 わたしは高等科を卒業すると、鉱山へ就職しました。

 ここで一年半を経たある日のことです。

 わたしは、トロッコ(炭車)と岩石に足をはさまれ、一年以上もの病院や自宅での療養を要する身になってしまったのです。一生の不具者になったのです。

 たのしいはずの青春も、アイヌという差別と、足が不自由になるという屈辱に、暗い人生をおくるのかと思うと、もはや生きることも断たれた気持ちで、父のほうむってある墓地に行き、一日中じいっと考え込むときもありました。しかし、兄はわたしが五年生のとき、荷馬車で肥料を運搬する途中の思わぬ事故で死亡し、姉二人はすでに嫁いでいるとなれば、母はわたし一人が頼りです。こんなときに自殺をしたら、母はどんなに嘆き悲しむだろうか‥‥。わたしは思いなおして家へ帰り”足が不自由でもよい、早くよくなって働けるからだにしなくては”と、療養に励んだものです。

 こうしたときです、日本が敗戦(1945)し、国の政治が民主主義を唱え、また、軍事産業から平和産業へと変わっていったのは。当然のように、アイヌ問題も頭角を現してきました。

 食糧難の深刻な時代でもありました。

 わたしは、少しの空き地でも田や畑に耕し、農業のまねごとををしながら、大農家の日雇いに行き、母との生活を築いていきました。また、青年会の活動にも顔を出し、いろいろと勉強したものです。少ない収入から新聞を二部も購読し、近所から笑い者にされたこともあります。

 コタンの老人や壮年層の人たちが「アイヌ協会を発足させるのだ」といってかけ回ったのもこのころです。

 わたしは、このことばには、耳もかたむけませんでした。なぜなら、
”今さらアイヌが団結してなんになる。北海道はシャモに取られ、文明化され、我々アイヌもシャモも、新しい憲法では平等と唱えているではないか。日常の生活を見ても、アイヌの作ったものはなにがある。茶わんにしても、農機具にしても、交通機関にしても、みんなシャモが作ったものではないか。我々が子どものころ、アイヌ、アイヌとバカにされたのは、アイヌが非文明人だからなのだ。おれはシャモになる!和人と同じ生活をする!和人の娘を嫁にもらってアイヌから脱し、おれの子どもは、アイヌというレッテルで悲しみ苦しまないように‥‥。姉たち夫婦のように同族結婚はしない。姉たち夫婦の子どものような毛深い子どもを生みたくない。だからおれは、シャモになるんだ!アイヌ協会なんて作るのおれは反対だ、絶対イヤだ!”
と、強く心にいい聞かせ、また、将来そうあるべきだ、と信じたものです。

 しかし、わたしの心に反して、母は、日常生活の中では、先祖の祭りを非常に大事にし、同族の間でなにか事あるたびにわたしを歩かせるのです。そしていつもその席はカムイノミから始まり、酒宴が高まるとウポポ(祭り歌)、リムセ(輪舞)と高潮していきます。

 アイヌはいやだ、といってるわたしも、このときはみんなといっしょに手をたたき、踊りの輪に入ってしまう‥‥。これは、子どものころから見てなじんでいるからか、それとも、もともとアイヌ民族の血が流れているからか、と、後で考え込み、苦しむことがしばしばありました。

 母は口ぐせのように、
「おまえは、シャモの勉強をして大きくなったんだから、死んだらシャモの葬式をしてもよいよ。でもな、わしはエカシやフチのいるカムイコタン(神の世界)に行きたいから、アイヌプリ(アイヌ式)で葬式してくれな。頼むよ。」
といっているので、自分の力で、カムイノミや葬いの儀式を習得しておかなければ、と考えてもいました。コタンの古老をたずねて、古式な葬いを教えてもらい、それをメモして、まちがいないか母と納得いくまで話し合うこともありました。

 わたしは、青年会活動には積極的でした。
それはシャモの娘と仲良くなりたい、と思っていたからです。

 あるとき、青年会で弁論大会が開かれ、それに出てみました。
電灯もないコタンの夜は、魚油の火です。そんな中で十枚の原稿をまとめ、青年会館の大勢の前で、演壇に立ちました。ところが、七枚も演説しないうちに目の前が真っ暗になり、額から脂汗がだらだらと流れ、そのまま失神してしまいました。しばらくして気がつくと、事務室に寝かされ、和人の一女性がわたしの胸にぬれた手ぬぐいを当て、看護してくれているのです。会場ではまだ弁論がつづけられています。わたしは、自分の失態を恥じ、彼女に礼もそこそこにして逃げ帰ってしまいました。

 この大会は、全町大会の地区予選で、一ヶ月後には、町の公民館で”全町青年弁論大会”が行われることになっていました。

 わたしは、もう一度全町大会に出る決心をし、原稿を修正して猛練習をしました。

 それには、わけがあったのです。

 同族の青年から、
「あのとき、君が倒れなければ一等になったと思ったのに‥‥。うしろの方でアイヌはやっぱりダメだな!と声があがったのだ。」
と、聞かされたからです。
 不思議なことに、あのときのわたしの看護をしてくれた女性も、
「全町大会に出場してみたいので、原稿をみていただけないかしら。」
と、家をたずねてきてくれ、わたしと一緒に練習しました。そして、地区の青年会を通さないで、直接、町の青年連盟に申し込んで出場したのでした。

 このときはなんとか最後までできて、わたしは三位に、彼女は五位になりました。

 新聞にわたしの名前がのったのは、このときがはじめてです。

 わたしが、”アイヌでもやれるのだ!足が不自由でもやればやれるのだ!”と、生きることに自信とよろこびを感じたのはこのときからです。そのとき、わたしは二十一歳でした。

 こんなことがきっかけで、彼女とも親しくなり、ときどきわたしの家へ遊びにきてはいろいろと語り合い、わたしが冬場、遠い造材山へ働きに行っても手紙をくれ、激励してくれたものです。

 わたしが、この女性と結婚したいと思うようになったのは、それから二年ほどし、彼女が二十二歳のときでした。

 ところがです。わたしは彼女の家をたずね、「お嫁さんにください。」と申し込むことができないのです。アイヌと和人という厚い壁があり、また貧困と富裕の開きがあり、そして健康と不具という難関が大きくはだかっているからです。

 彼女は、わたしと結婚したいと望んでいることにまちがいありません。

 部落の青年たちは、こんなわたしと彼女のことを噂し始めました。すると、その噂を耳にしてか、彼女の親がわたしの家へやってきて、
「うちの娘と交際するのはやめてくれ。ほどもあろうに、あんた方と交際するのは世間体がわるい。」
と、どなりつけるのです。

 これはあきらかに”アイヌの家の者”という意味です。

 わたしは、彼女がどんなに親に反対されようとも、自分を信じてくれると思い、ひそかに連絡をとり、意思を伝えてプロポーズしたのでした。

 このときはじめて、固く手を取り合いました。

 彼女は、わたしの妻になることを約束し、反対する親たちを必ず説得する、と誓ってくれたのです。

 数日後、彼女から封書が届きました。

 心を躍らせ開いてみると、純白のハンカチが一枚はいっているだけです。でも、そのハンカチの隅に、わたしの名まえと彼女の名まえが、きれいに刺しゅうされているのです。
 ”これは、両親を説得した印だ!いよいよ結婚できるんだ!しあわせになれるんだ!”

 わたしはその夜、うれしくて眠れませんでした。

 翌日の夕方、友だちがきて、
「おい、おまえ何もしらんのか。彼女は服毒自殺して、明日は葬式だぞ‥‥。」
と教えてくれました。

 そのときわたしは、一瞬にして目の前が真っ暗になり、その場に泣き伏したものです。彼女の霊前にもいけず、三日ほど寝床に伏したままでした。母や友人、姉たちに慰められながらも、半月ほど半病人で過ごしたものです。
”アイヌであるため、恋も結婚もできないのか‥‥。おれの人生は、数年前と同じく暗い悲しいものなのか‥‥。おれも天国へ行きたい。そして、この次にはしあわせな人間として生まれてきたい‥‥‥”

 こんなわたしを、頭の白くなった母は案じ、いろいろと慰め、元気づけてくれたのでした。

 このような悲しい苦しい経験が、だんだんとわたしを成長させてくれたのでしょう。

 わたしが二十九歳のときです。

 姉が住む近所の農家に働いていた和人の娘を紹介され、結婚しました。現在のわたしの妻です。

 このときも、両親がアイヌといって反対したそうですが、姉たち夫婦が仲にはいり、どうにか認めてもらったということです。

 結婚してからは、妻の父や母もわたしの家へ遊びにきてくれ、別にいやな顔もせず「にいさん、にいさん」と、わたしに親しんでくれ、妻も、口に入れ墨した母にやさしく仕えてくれます。カムイノミをするときも、きちっと正座し、母といっしょに古式に加わっています。

 三つの欠点をもったわたしも、やっと日本人として認められた思いで「このしあわせをいつまでもつづけよう。自分の子どもに再びあの苦悩を味わわせてはならない。家庭を強く明るく築いていこう」と、妻と語り合ったものでした。

 昭和三十五年(1960)、アイヌ協会が再発足することをおじさんに聞かされ、誘われるまま札幌に行ってみました。

 会場にはいってみると、全道から優秀なアイヌの指導者が集まっています。どの意見を聞いても、わたしと同じ経験の中から努力を重ね、今日の地位を築いているのです。
「我々が一致団結して、知恵と力を合わせ、道庁や国に陳情して、子弟の教育、住宅の改修、環境の整備を行ない、和人と同等の生活水準に高めるべく努力しよう。」

 この決議に、わたしは心を打たれました。
 ”アイヌにもりっぱな人がたくさんいる。おれは今まで、アイヌから逃げようとしか思っていなかった。しかし、それはまちがいなのだ。おれは、この人たちと行動を同じにしよう。おれは若いけど、なにかできることがある‥‥”
と、このとき心に決めたのです。

 そして、十二年経た今日も、アイヌ運動に微力ながら精進しているわたしなのです。

 この間、母は亡くなり、望み通り古式によってカムイコタンにおくることもできました。

 現在、わたしの家に四人の子どもがおり、みんな学校へ行っています。ときどき、
「とうさんはアイヌでしょう。」
と、ためらいのない言葉がとび出し、妻は、
「あんたも、アイヌでしょう。」
と、笑っていっています。

 わたしはそんな子どもに、
「アイヌは、ほんとうの日本人なんだよ。北海道を最初に開拓したのは、アイヌの先祖なんだよ。おまえたちも、その血を受け継いでいるのだから、りっぱな人間にならなくちゃだめなんだよ。」
と話しています。もう少し大きくなったら、アイヌ文化のすばらしさも教え、継承できるものは受け継がせてやりたいと思っています。

 また、アイヌ運動は、わたし一代で終わりにしたいものです。

 次代の親には、わたしたちのような苦しい生活や経験をくり返してもらいたくない、と願うからです。そのために、和人のアイヌに対する差別や偏見が一日も早くなくなるようにと、願わずにはいられません。

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