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一介のオタクがブロードウェイ・ミュージカルに打ちのめされた話

 先日、IHIステージアラウンド東京にてブロードウェイ・ミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」を観劇させていただきました。その時の記録です。

https://www.tbs.co.jp/stagearound/wss360_1/

 前提として、本作品を観劇に行った理由が、単純に「三森すずこさんが出演するから」というただのオタクの感想に過ぎないということを踏まえて読み進めてくださると幸いです。


事前知識皆無で臨んだことについて


 「ウエスト・サイド・ストーリー」(1957年初演)は、かなり古い作品ではありますが映画化もされているし、日本でも劇団四季が『ウェストサイド物語』として上演したこともあるなど、比較的「有名な」演目であるらしいのいですが、私個人としては名前も知らないお話でした。この状態で観劇したのは正直ちょっと失敗でした。宣伝の広告やホームページ等に載っている「あらすじ」程度は頭に入れておいてもよかったかもしれません。作品を最大限に楽しむために「極力ネタバレになりそうな情報や知識は回避する(タイトルや衣装、キービジュアルなどの公開情報からも作品の内容を予測しない)」という長年のオタクの癖が裏目に出たといえるでしょう。

観劇前は、
 ○たぶんアメリカの話
 ○主人公(男)はおそらく昔悪いことをしていた
 ○なんか主人公が恋に落ちる物語っぽい
 ○(ビジュアルからして)ファンタジー系ではない
 ○アニータが酷い目にあう場面がある

くらいのほぼ事前知識ゼロの状態でしたから、今思うと当然ですが、序盤は割と「これは一体どういう人間たち話で、どういうことを伝えたいのだろう?」と考え過ぎて、物語に入り込むことや細部の描写を楽しむ心の余裕がありませんでした。
 作品全体を通してセリフは少なめ(少なめだよね?)ということもあり、序盤のJetzとSharksの抗争の場面なんかは、「こ、これは…?」「私は一体何を見せられているんだ?」と自意識が首をもたげてきて、物語への集中が削がれてしまったのも事実です。

教養のないオタクが自分のホームを出ると痛い目見る

 ミュージカルの感想と断っておきながら、早速関係ない話をしますが、大切なことなので先に書かせてください。
 たとえば、オタクなら日常的に「推しの声優が出るという動機だけでまったく知らない作品を見る」という経験をすることがあると思います。昨今のオタク業界(アニメやそれに付随する娯楽産業)においては、供給される作品の数が過剰気味であるが故、むしろそうやって動機づけしてフィルターをかけていかなければ、自分が求める作品に出会えないとも言えるし、別段それによって不都合も感じないと思います。ここでいう「不都合を感じない」というのは、「(好き嫌いは別として)それなりに理解できて楽しむことができる」という意味です。

 そうです。今回私が観劇させていただいた「ウエスト・サイド・ストーリー」は、一介のオタクが丸腰で臨むには、ややハードルが高かったのです。言い方を変えると、我々が日常的に摂取している日本のアニメや漫画、映画、ドラマ、演劇などの作品がどれだけ限定的な文脈の上に作られ、どれだけ日本人にわかりやすい設定で作られているのかを普段我々は一切意識せずそれら作品の恩恵を享受しているかということでもあるのですが… まさに本場ブロードウェイの古典的ミュージカルにオタクの無意識に固着した考えの甘さを思い知らされたという訳なのでした。

 おそらくこれは、教養のある人やちょっと長生きして古い映画とかたくさん見ている人なら、あのステージの背景セットや演者の衣装とかを見た時点で「あ~なるほど」って具合にスッと腑に落ちるのだろうと思いますが、悲しいかなアホな私には、マンハッタンがどこなのか(地図上の場所もさることながら、アメリカにおいてマンハッタンがどういう場所なのか、どういう人が住んでいるのか、そしてそれが物語においてどういう役割を持つのか)さえわかっていなかったのです。
 

マンハッタン


自分が「わからない」のか「わかっている」のかがわからない
 という次第で、第一印象が「あっ、これよくわかんねぇぞ」になってしまい、それからは登場する「プエルトリコ」とか「ポーランド系」とかいう言葉が(意味は通じるけれど)何を表しているのかが「わからない」という状態でしばらくを過ごすこととなりました。JetzとSharksという不良?グループ(マフィアじゃボケ)がいて、縄張り争いをしているということはわかるが、それが何を意味するのか、どのくらいの真剣さで争っているのかが「わからな」くなっていました。
 無論、後に「移民」というキーワードが出て来るため、次第に設定と時代背景が理解できるのですが、序盤はこの最初の「わかんねぇ」という感覚のせいで、常に「今自分はちゃんと理解できているのだろうか?」という疑念が拭えず、100%作品の世界観を楽しめなかったのが残念でした。(そもそも「ウエストサイド」が具体的にどこなのかもよくわかっておらず、西海岸のことか?くらいに思っていた自分をぶん殴りたいです。)

 恥ずかしながら、私は無知だったが故に、当初この辺の前提となる歴史的背景や登場人物の根底を流れる思想みたいなものが掴めなかった(まぁそこは主題ではないのでわからなければそれでいい部分なのかもしれませんが、とはいえ物語の半分くらいはそこに割かれているわけだから、やっぱり教養不足を感じずにはいられません。)のですが、実際WSSを観劇に行かれた方は、あの辺の「1950年頃のアメリカ」を肌感覚的に「わかる」ものなのでしょうか?平成生まれのオタク(というか私)がたとえば「任侠モノ」にあまりシンパシーを感じないように、前提知識や教養の多寡を抜きにしても、当時のアメリカを現代の日本人が理解するのには、結構な隔たりがあったのではないかと思われます。
(やっぱり改めてキャスト陣を見るに、私と似たようなミーハー的な動機で観劇して「???」となったオタクは確かにいるんじゃあないかな…)

 という、このくらい「わかってない奴」の感想なのであまり期待しないでほしいのですが、※以下ネタバレを含む可能性がありますので、これから見に行かれる方は、ご自身の判断で御覧ください。






よかった点

◇360度回転する!
 IHIステージアラウンド東京には初めて行かせていただきましたが、凄かったです。
 実際「360度回転する」ことを演出に活用するというより、回転によってステージそのものを切り替えることができるので、場面チェンジする時間稼ぎための暗転や観客の視線を逸らせるためのモノローグなどが少なく、次から次へと切り替わる展開の方に驚きました。
 また、「360度回転」のおかげで、観客に見せる範囲を変えることができる=その都度セットを片付ける必要がないため、舞台のセットが本当によく作り作り込まれていて、そこも見どころだなと思いました。

◇非言語のエンターテイメント
 ダンスとアクションが本当に多くて、それぞれの演者にそれぞれ見せ場があってそこがよかったです。これは、わかるとかわからないではなく、単純に「すごい」と思うし「楽しい」と感じることができました。
 むしろ文化的な背景が理解できなくても誰が見ても楽しめるこっちの表現に力を入れていたような気さえします。舞台全体が「ウエストサイド」という貧困層の住む地域の不良たちを中心に描いているため、「暗い」イメージになりがちですが、これらダンスとアクションのおかげで「明るい」「楽しい」印象も強く残っているのがとてもいい感じです。

◇音楽
 一部終了時点まで生演奏だったこと知りませんでした(アホ)。
 1部の最後で序盤から繰返し使われていたメインテーマ?とトニー&マリアが歌っていた「Tonight」が徐々に繋がっていく流れは本当に盛り上がって大好きです。

◇キャスト
私が観劇させていただいた回のキャスト(敬称略)は以下の通り。

 トニー  :蒼井翔太
 マリア  :北乃きい
 アニータ :三森すずこ
 リフ   :小野田龍之介
 ベルナルド:中河原雅貴

という布陣だったわけですが、みなさん本当に素晴らしかったです。推し以外では、やっぱり蒼井翔太さんの歌声が信じられないほど美しかったです。「天使」と呼ばれる所以が垣間見えました。
 そして個人的に衝撃だったのがマリア役の北乃きいさんです。すべての劇中歌が想像を遥かに超えてお上手で、失礼ながら最初は「北乃きいじゃない方の人(笹本玲奈さん)かな?」と勘違いするほどでした。個人的に北乃きいといえば、その昔フジテレビで放送されていた「ライフ」の印象があまりにも強く、当時(私が中学生の頃)から女優としてのイメージしかなかったので、まさかあんなに美しいソプラノボイスで歌えるなんて…蒼井翔太さんのトニーとの呼びかけ合うような「Tonight」、そしてJetzとSharksのキャスト陣の力強い男声コーラスの中に流れ込む目が覚めるような美しい高音は、比喩でなく本当に涙が出るほど美しかったと思います。

◇恋する「二人」の表現
 先述した通り、私の教養不足によりWSSの主題の半分であるところの「アメリカの下層民が抱いていた社会から受ける抑圧や蔑視に対する鬱憤や不満」というものについては、物語が中盤にさしかかるまで感得することが難しかったわけですが、一方、トニーとマリアの恋愛については自然と「ロミオとジュリエット」が想起され、非常に理解しやすく、楽しめました。
 こう書くとすげー馬鹿っぽいですが、実際前者の部分については、殺陣の中で発されるセリフが多く、かつ重なっていたりそれぞれがシャウトに近かったりするため、そもそも初見では聞き取りづらいという部分もあったと思います。(この辺の改善を期待するのは野暮でしょうか?)対してトニーとマリアの会話は描き方が丁寧であるばかりでなく、基本的に一人ずつ落ち着いて語られるため、とても聞きやすく、わかりやすいという構造になっていたということも事実でしょう。
 中でも二人がベランダで密会する場面は、IHIステージアラウンド東京の本領発揮!といった感じで、スクリーンに映し出された映像が少しづつ回転していく視覚情報と自分の座っている座席が回転する運動感覚が相まって、本当に「天に昇っていくような」感覚に陥りました。


その他考えたこと

◇不良少年たちの「コード」
 冒頭のJetzとSharksの場面に代表されるんですが、彼らが終始纏っている不良少年(マフィア集団)特有の雰囲気についてです。適切な日本語かどうかわかりませんが、ヤンキーの「イキリ」や「ツッパリ」、「虚勢」とも「空威張り」とも言えるでしょう。敵味方を問わずとにかく他人に舐められてはなるまいとして過剰にすごむことで自分の優位性を示そうとする不良文化に共通する独特のコミュニケーションの文法のことです。一触即発のようで実はお互いに単に威嚇をしているだけだと了解してはいながら、「いざ」となると虚勢を張っている手前、引っ込みがつかなくなり互いに破滅の道を進むしかないというあの不自然な関係…無学で粗野であるが故に、結果的に自分も相手も損をすることになるとしても辞められない愚かさがあります。
 ネタバレになりますが、WSSが悲劇で終わるためには、2つの要因があって、一つがトニーとマリアの「立場を超えた恋愛(許されざる恋)」、もう一つが私がここで言いたい「不良少年たちのコード」です。
 悲しいことにWSSに登場する不良少年たちは、原因はどうあれ、彼らの日々の素行の悪さ故に社会から排除され、蔑視されているわけです。大人たちから蔑まれるからまた非行に走って警察のお世話になり、結果さらに社会からのけものにされる。学校に行ったり仕事をしたりという形では社会には帰属できないから不良同士で集まるしかないという悪循環に陥っており、ここにおいては劇中では救いはないのが何とも辛いところです。

 あと、これは個人の見解ですが、やっぱり差別用語や隠語を日本語に直してしまうと、何とも言えないダサさが出てしまって(とはいえ原文では意味が通じないし)、翻訳の難しいところですね。


◇恋と徳
 このような環境の中でトニーに変化をもたらすのが「恋」です。マリアとの出会いによって、不良グループを抜け、仕事を始め、二人で暮らそうとまで考えるようになります。
 恋によって社会性が復活し、不良少年がにわかに真人間になれるかのような書きぶりですが、ここで思うのが、「恋」というのは結局「自分のため」の活動なんだなぁってことです。恋愛はすべからく善ではなく、むしろ人間社会との関わりにおいては「悪」になりがちであり、もっといえば道徳律から考えても、人をして人倫を踏み外すような行為をさせしむる場合が多いということです。
 トニーはマリアとの出会いによって、それまでの帰属集団であるJetsを抜け、親友のリフの信頼を裏切り(言い過ぎか?)、JetzとSharksの抗争に対してももはや価値を認められなくなってしまうのです。自分がグループを抜けることによって仲間がどういう状況に置かれることになるのかとか、また、対立するSharksのリーダー格ベルナルドの妹マリアに恋する=マリアに家族との別れを強いることになるのではないかとか、そういう他者の不幸は一切顧みず、ただマリアを純粋に愛するというのが、美しいけれどわがままで残酷で「罪」だなと感じました。
 ではこの他人に不幸をもたらす「罪なる恋」に対して私が個人的によい対比になっているなと感じたのがアニータの「徳」です。

◇アニータ ~自由と寛容~
 アニータは、物語を通じて唯一ともいえる「徳」をもった存在です。リフやベルナルドら不良少年たちが社会から受けた蔑視を、それぞれがお互いに向け合って差別や侮蔑の再生産をしている中(保安官でさえ不良たちを更生に導くのではなく、不良少年とともに堕落しているというのに)、アニータは多様性を受け入れ、「私はもうアメリカ女よ」と誰よりも自由に生きているのです。具体的な歌詞は把握しきれませんでしたが、アニータがベルナルドに「故郷には戻らないと決めてアメリカの地に来たのに、いつまでも出自にこだわって対立しているのは滑稽だ(意訳)」と諭すところなどは、本当に爽快でした。(マリアにもこの寛容と自由の精神性は受け継がれているのかもしれませんが、主としてアニータの魅力として描かれていたように思いました。)

 そして、二部の話に飛ぶわけですが、アニータがマリアと向かい合う場面、振り返ってみれば、やっぱりあそこのアニータの精神の尊さに一番心を動かされたと思います。
 トニーに自分の愛するベルナルドが殺されたわけですから、マリアに「あいつは人殺し 人殺しには心がない 心がない人間を愛しても無駄」とトニーと別れるように言うのは当然です。しかしながら、ここでアニータが(故意ではないにせよ)トニーによってもたらされた憎しみの気持ちをマリアにも向け、二人の恋路を阻むのではなく、マリアのトニーを愛する気持ちの方を汲んであげるところにアニータの人徳を感じました。アニータがベルナルドを心から愛したことのある大人の女性だからこそ、マリアがトニーを愛する気持ちも理解できるし、またアニータがトニーを恨めしく思う気持ちは、アニータがベルナルドを心から愛していたからこそ感じる憎しみなわけで、この両方の感情を抱くからこそアニータはマリアをトニーの元へ行かせてあげようと思えるのでしょう。
 先に「罪なる恋」と書きましたが、これに対するのは、アニータが見せた「徳」ではないかと思います。自分の衝動を抑え、他者のことを思いやることのできる優しい心のことです。皮肉にもドクの酒場でリフがjetsのメンバーに「coolになれ!」と言って聞かせましたが、結局彼らは自分の感情や刹那的な衝動を抑えることができずに(coolになり切れずに)同じ過ちを繰り返していました。彼ら不良少年たちは、これからも抑圧や鬱憤を抱えたまま、社会から侮蔑と偏見の眼差しを受け続けていくのだろうと考えると仄暗い気持ちになります。

◇悲劇とハッピーエンド願望
 個人的にマリアがアニータに伝言を頼んだあたりで(アニータは不幸な目に合うとしても)無意識に「これはトニーとマリアはちゃんとハッピーエンドになるんだろう」と思っていたようで、チノが発砲したところでマジにビビりました。ショック!「あ~こういう展開もあるのね…」と結構なダメージを受けました。ここに来て自分が約束されたハッピーエンドに向かう物語ばかりを好んで摂取してきた偏食オタクだったということに思い当たりました。(そりゃそうだよね…)
 なんかもうトニーが撃たれた後は、空っぽで、マリアがチノに拳銃の撃ち方の教えを請うところは、なんだか執拗に長く感じられて(あれも狙いなのかな?きっとそうだろうな…)、最後の「私の分、残る?」では、涙なのか何なのかもよくわからないものが溢れました。

 悲劇のすべてがダメというわけではありませんが、今回のWSSにおいては、各キャラクターの「その後」を想像する時、基本的に全員未来に希望が持てないのが辛いところです。その意味で本作は、私の中では「バッドエンド」に分類されました。

 トニー・・・・・死亡
 マリア・・・・・最愛の人と兄を失う
 アニータ・・・・最愛の人を失い、性犯罪(未遂?)に遭う
 リフ・・・・・・死亡
 ベルナルド・・・死亡

 特に生き残ったマリア、アニータが本当に救いがなさ過ぎて辛いです。(終盤の展開が目まぐるしくて、あらすじがあまり頭に入っていないので間違っているかもしれませんが)、マリアはシュランク警部に足止め食らったせいで、トニーとはほぼ生き別れたことになるし、何より先述の通り、あれだけ美しい徳を見せたアニータが最後に「これから先、あんたたち(不良少年たち)が道端で血を吐いて倒れていようと、唾を吐き捨てて通り過ぎてやるわ」と言い放つのが深く胸に刺さりました。自由と寛容を持ち合わせた(まるでアメリカという国を象徴するかのような)アニータが、物語を通じて成長するどころか、かつて窘めていたベルナルドら不良少年たちと同じレベルの偏狭な価値観に舞い戻ってしまうというのが何とも残念でなりません。その他、不良少年たちは依然不良少年のままだし、あれだけ思わせぶりなシュランク警部は、与えられた権限を行使していくうちに犯罪や非行を取り締まるはずが、自らがその権限を振りかざすだけの小悪党のようになってしまうし(ちょっとはカッコいいことするもんだと期待していたので…)。
 というわけで、結末が悲劇である以上どうにもならないことではあるのですが、観劇後はあまり晴れ晴れとした気持ちにはなりませんでした。これは私が無意識的に「ハッピーエンド」を期待していたからなのかもしれませんが…

◇オタクの邪推
 この辺が何とも腑に落ちなくて帰りの電車、家に帰ってからずっと考えていたんですが、ふと三森さんの公演前の言葉がよぎったのです。

「アニータを生きる!」

 アニータの人生は、あの2時間半の舞台の中だけのようだけれど、やはりその前後、つまりアニータがあの自由な価値観と多様性を受け入れるだけの寛容性を獲得するに至ったそれまでの人生があって、そしてベルナルドやマリアと共に過ごし、その優しさによって不幸にも不良共に強姦されつつも「寛容するに値しない人間が存在する」と悟り、それからの人生を一人で歩んでいくだろう未来が確かに存在していて、物語を通じて結果的にアニータの人間的な徳は失われてしまうのかもしれないけれど、我々がこの「ウエスト・サイド・ストーリー」という話を思い出す時には必ず「自由と寛容」という二つの徳を持ったアニータという女性のこと、彼女のたくましい人生、悲運な運命に思いを馳せるわけで、その点においては彼女の持っていた精神的な卓越性は何ら損なわれることなく存在しているし、おそらく他の登場人物、例えばトニーも、マリアと出会ったことで彼の人生は短命に終わってしまったのかもしれないけれど、彼の恋の高揚感、多幸感、焦燥、そして絶望は確かに我々に届いているわけで、このことが彼らの人生がそこにあったということの証明であり意味であるように思います。


公演後のトークショーと裏話


 司会のトビーさんが大変おもしろくて、終演後の暗い気持ちがだいぶ楽になりました。
 一点、北乃きいさんがお話になった「最後マリアが着ている服の模様(赤い花柄)は、実は手書きで、それも血が飛び散ったように見えるようにところどころ滲ませて描かれている」という大変貴重な裏話がありました。次回はそういった箇所にも注目して観劇したいと思います。


豊洲の再開発


 もう観劇に行かれた方ならご存知だと思いますが、現在豊洲は再開発中とのことで、今現在は会場周辺は工事中で「何もない」のですが、今後は複合商業施設が建設され、ますます発展していくようですね。360度回転する劇場 IHIステージアラウンド東京、そしてブロードウェイ・ミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」、貴重な体験となりました。

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