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劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト~劇場でしか味わえない{歌劇}体験とは~

劇場版レヴュースタァライトの見てきた感想と考察、まだ消化しきれていない点などを書き殴ります。(一部追記しました。)






※以下ネタバレを多く含みます。







ネタバレになりますが、まだ視聴していない方はぜひ一度劇場で「体験」していただきたいと思います。脚本、作画、音楽、どれも本当に素晴らしい完成度です。







以下ネタバレです。



あらすじ(プロット確認)

(新作劇場版~12年前の回想~)
 東京のどこか、東京タワーの見える街に住む愛城華恋は、近所の同級生・神楽ひかりと出会う。ひかりと友達になった華恋は、ある日、ひかりに誘われて舞台『スタァライト』を観劇し、衝撃を受ける。そしてその日、二人は「一緒にスタァになる」という約束(運命)を交わし、舞台に憧れるようになる。
 しかし、ひかりはロンドンへ引っ越してしまい、華恋と離れ離れになってしまう。

 華恋はひかりとの約束を叶えるため、劇団に入り、舞台の道を突き進む。中学生の時、叔母のマキの薦めで名門「聖翔音楽学園」を目指すことになる。

 
(TVアニメあるいは再生産総集編)
 聖翔音楽学園に入学した華恋は2年生の春、ひかりと運命的な再開を果たす。と同時に謎のオーディションに巻き込まれる。(中略)キリンのオーディションを終え、華恋とひかりは第100回聖翔祭で無事に『スタァライト』の主演を演じきった。

(新作劇場版)
①卒業を控えて各々の進路を見据える99期生の面々。しかし愛城華恋だけは自分の進路が白紙のままだった。(それは神楽ひかりが自主退学して学園を去ってしまったからだった。)
 新国立第一歌劇団の見学に浮かれる(トップスタァを目指す気概を失った)仲間たちに苛立つ香子、大場なな「みんな喋り過ぎだよね…」

②新国立第一歌劇団の見学に向かう電車の中、突如としてレヴューが始まる。(皆殺しのレヴュー、すなわち「私たち、もう(舞台少女として)死んでるよ」=舞台少女として終わっている純那たちを葬り去るばなな。真矢だけはこれが「舞台」であることを見抜いているようだ。)
 一方、華恋の元を去るひかりをに問いかけるキリン。「電車は必ず次の駅へ、では舞台は?あなたは?」

③第101回の聖翔祭の決起集会。脚本の眞井、雨宮の言葉に舞台少女としての原点を思い出す99期生。「囚われ、変わらないものはやがて朽ち果て、死んでゆく。だから生まれ変われ!古い肉体を壊し、新しい血を吹き込んで」それを暖かく見守る大場なな。
 キリンの独白「私は舞台少女たちの糧」。
 画家アルティンボルトのだまし絵を模したかのような野菜で形作られたキリン(=観客の「まだ見ぬキラめく舞台を見たい」という欲求、燃料)からこぼれたトマト(燃料)を齧り、キラめきを再生産する舞台少女たち。「舞台に上がれ!もう一度」

⑧各レヴュー(略)

⑨キリンに出会うひかり「愛城華恋さんは役作りの最中です。」舞台少女のキラめきに魅せられた欲深い観客が望む”終わりの続き”、それが「ワイルドスクリーンバロック」。自分に与えられた役目は舞台に火を灯すことだったと悟るキリン。
 未だ自分だけの舞台を見つけられない華恋は、自分が舞台の上に立っていたことを認識したとたん死んでしまう(舞台少女が舞台で生きるためには次々と新たな舞台に立たなければならないから)
 ひかりは舞台少女・愛城華恋が再び蘇ると信じて歌と共に手紙を送る。
 過去も運命もすべてを燃やし尽くして生まれ変わる愛城華恋、そして最後のセリフ…




私たちはもう「舞台」の上

 主題歌にもなっている「私たちはもう舞台の上」という言葉。予告編や上映前の特番などで映画視聴前に一度は耳にしたことがあるとは思いますが、実はもうかなり前からネタバレしていたんですね。そしてまた前作・再生産総集編『ロンド・ロンド・ロンド』の衝撃のクライマックス新規カット「舞台少女の”死”」という言葉の解でもありました。

 これまで華恋たちが戦っていたレヴューは「オーディション」だった訳で、オーディションは舞台の配役を決めるためのものであって、舞台ではない。キリンの「共演者はあと二人」のセリフにあるように、オーディションが終われば本番の「舞台」が始まる。『ロンド・ロンド・ロンド』の最後のひかりの言葉「私たちはもう、舞台の上」とはすなわちキリンのオーディションが終わって舞台が「始まったのだ、今」ということなんだと思います。
 「これはオーディションに非ず」、「私たちはもう舞台の上(に立っている)」だから、有名な劇団に憧れ、ただの一介のファンのようにはしゃぎ、トップスタァを目指すことをやめ、トップスタァではない自分を受け入れてしまった純那たちはもう「(舞台少女として)死んでる」んですね。言葉は少ないですが、日常パートからずっと説明してくれていましたね。
 だから、ばななに倒される時も、「今はまだ(真矢たちに)及ばない」と認めてしまっていた純那や実家に戻って(不本意ながらも)挑戦をやめようとしていた香子は致命傷を受け特にひどく出血し、舞台の上に立っていることさえできなかったのでしょう。

 地味にクロディーヌがよかったですね。見学の電車の中でもみんなのことを「これじゃただのファンみたいね」と俯瞰で評していたり、洗濯室で明日の見学に浮かれるまひるとは対象的にやや落ち着いて(別室で団欒するみんなとは一線を置いて)いたり…聖翔祭で「だからあいつだけ…」と最初に「皆殺しのレヴュー」の意味に気づくのもクロディーヌでした。 
 細かい話ですが、日常パートでクロ子と話しながらまひるの洗濯物が「回り始める」一方、先に洗濯(次の舞台の「選択」)を始めていたクロ子の洗濯物は「もう回っている」のが印象的でしたね。回るのはもちろん電車の車輪です。)



愛城華恋という人間

 今回、華恋とひかりの回想から徐々に愛城華恋の幼少期にスポットが当てられ、華恋のキャラクター描写が丁寧になされていたのがよかったと思います。意外だったのが、小さい頃から他の子供と比べて引っ込み思案というか内向的で自己表現が苦手な、やや発育の遅れた地味な子供だったのが印象的です。
・同い年のひかりに挨拶されても母親の陰に隠れてもじもじしている
・みんなが鬼ごっこしていても混ざれずに先生の裾にしがみついている
・カスタネットをリズムに合わせて叩けない
・自分でも好きかどうかわからないキラミラ?を(周囲に流されて)遊んでいる

 そんな子がひかり(と舞台の世界)に出会うことで人間性を開花させて明るく利発な女の子に育ったっていうのがグッときました。また、華恋の口癖「ノンノンだよ」が小学生の時に演じた役のセリフだったと分かる場面がありましたが、この子はこうやって自分が「演じた役」を新たな自分の一面として吸収しながら成長していったんだろうな…と感じられ、この辺の描写が本当に丁寧で、ようやく華恋のことを好きになれた気がします。

 また一方で華恋の人間味という点で
・2014年時点でようやくガラケーからスマホに移行した
・同級生より先に進路を決めていたようで実は(約束以外には)「何もない」人間だった
・「見ない聞かない調べない」という自分に課したルールを(不安に負けて)破ってしまう人間的な弱さのある人物である
・王立演劇学院の存在を知っていながら、知らないフリをする(秘密や二面性といった)普通の女の子のような一面がある
 …という絶妙なリアルさがあって、ただ明るくて素直なキャラクタではない人間としての愛城華恋がわかって、今回でぐっと距離感が近づいたように感じました。

 また、「自分ルールだから”ごめん”じゃないのかもしれないけれど。だから、約束を覚えていてくれてありがとう」(1話と同じシーン、たぶん)でひかりはレヴュー服なのに、華恋は制服のまま(武器と上掛けは近くにある)というカットが印象的でした。ひかりは舞台少女として立っているのに華恋は実はあの時(「調べない」という自分ルールを破ってしまったことを意識する罪の告白でもある)、舞台少女としてではなく一人の人間、不安も悩みも抱える一人の女の子としてひかりに向き合っていたというのが非常にエモかったです。

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(↑アニメだとふたりとも制服だけど、劇場版だと華恋だけ制服)





舞台少女

 今回の映画のテーマの根底に流れる「舞台少女は次の舞台へ!」というメッセージ。舞台に憧れトップスタァを目指す舞台少女は、現状に甘んじたり成長や進化(変化)していくことを拒絶した瞬間死ぬということ。これが端的に描かれていてよかったと思います。

 予告でも登場した「電車」は次の舞台を目指して走り続ける舞台少女そのもの。ロンド・ロンド・ロンドのように同じ舞台を再演し続けるだけ(ぐるぐる回り続ける車輪のまま)では、舞台少女は死んでしまう。そうではなく、舞台少女は目的地へと向かう電車なのだ!
 人は目的地(駅)へと向かうために(つまり、降りるために)電車に乗るけれど、電車そのものである舞台少女は、走ることが目的であって、それは電車が走るために存在するのと同様に、舞台少女は舞台少女として存在する以上、常に新たな舞台に向かって演じ続けなければならない(電車にとってどこの駅に向かうのか、誰がいつ乗り降りるのかというのは問題ではなく、ただひたすら走り続けることが存在意義であり目的である)というのが必然的に導かれ、そして華恋の最後の結論に至るという流れが完璧です。




今こそ「塔」を降りるとき

 これまでこの作品における“塔”の役割は、星摘みの塔=星に手が届く場所(この世で最もスタァに近い場所)だったので、「塔を降りる」という表現に違和感がありましたが、全編を通して振り返ると、劇中の時間進行に合わせて、聖翔音楽学園という学校の最上級生になった(塔の頂に立った)華恋たちが学園を去り、進学したり劇団を受験したりすることで、しるべのない新しい世界に進むことを”塔を降りる”(つまり「学園を卒業する」、「違った道を歩む」=「別れ」)と表現したのかなと思いました。確かに「塔の頂」は塔の中では一番高い場所ではあるけれど、その場にいる限り、それ以上高く登ることはできない「檻」でもあります。

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 『スタァライト』は必ず別れる物語であるけれど、「『スタァライト』(これまでの華恋とひかりの道しるべ)を演じきった」(つまり、二人の約束=運命を叶えた)ということが、「塔」(=学園)が役目を終えたように、二人の新たな(別々の)未来にとっての始まりに繋がっているのという解釈が最高に美しいと感じました。
 
その上でまた再考すると(これは個人的解釈ですが、)
 「塔」=学園(華恋と一緒にいられる場所)と定義すると、戯曲『スタァライト』の一節“フローラは星のキラめきに目を灼かれ、塔から落ち”という部分は、「愛城華恋に魅せられ舞台少女ではなく単なる華恋のファンになってしまうことを恐れて華恋の元を去った」になり、するとフローラ=ひかりと解釈することもできるし、当然、”クレールは塔に幽閉され”は、「ひかりとの運命(スタァライトを共に演じるという約束)によって縛られて学園に残る華恋」ということになるのでは…?これだと、華恋=クレールということになり、おいおいおいおいおい!ここでも「運命を交換」してるじゃん!と思いましたが、これはオタクの勝手な解釈ですのであしからず!   (散ッ!!)





「愛城華恋は舞台に一人」

 「愛城華恋は舞台に一人!」って言葉、これもクライマックスの口上の中で発せられる言葉なので勢いに負けて意味を考えずに受け取ってしまいそうになる(「愛城華恋が二人として存在しない、唯一無二の存在だ!」くらいの意味に捉えてしまう)けれど、冷静に考えてると、かなり深い意味を孕んでいて…
 というのは、それまで「ひかりちゃんと一緒じゃないとスタァになれない」とか「私にとって舞台はひかりちゃん」のように、華恋は本当の意味で「舞台」に立っていなかった(約束=運命だけを追いかけていた)訳で、それが最後のレヴュー(スーパースタァスペクタクル!名前めっちゃカッコよくてニヤニヤしてしまう)以降は、ひかりと一緒じゃなくても、このリアルな世界の「舞台」に舞台少女として立つ!という意味を込めて(つまり、二人で一緒にスタァライトすることを「運命」と定めた過去の自分を乗り越えて)「愛城華恋は”舞台”に一人(で立つ)!」なんだなと気づいてしまって、急にエモくなりました。(これもうレヴュースタァライト終わりじゃん…てか、終わりを迎えなければならない物語であるということを十分理解したし、終わることを受け入れないという選択肢が無いということがただただ美しくてかなしいんですよね。)

 余談ですが、エンドロール後に華恋が新しいオーディションに臨む時「1番、愛城華恋!みんなをスタァライトしちゃいます!」っていう『レヴュースタァライト』のセリフを言っていて、(華恋の「ノンノンだよ」が小学生の時に演じた役のセリフであったように)「ああ、華恋にとっても『スタァライト』が過去の思い出の作品のひとつになったんだな…」って感じて鼻水ずびずびになりましたね…





劇場でしか味わえない{歌劇}体験

 おそらく、この部分だろうという個人の見解ですが、

 最後にようやくひかりと再会した華恋が「やっぱり私にとって舞台はひかりちゃん」とどこかで聞いたような言葉を言うと、ひかりが「それはあなたの思い出?それともセリフ?」と聞き返します。直後「ブーーー!」と開演ブザーの音が響き、幕が上がり一瞬にして画面のフィルターが1枚抜かれたように色調が変化します。その後で華恋が「見られてる!?」と初めて自分が”舞台”の上に立つ役者であることを認識して動揺するあのシーン。

劇場版異化効果

 あの瞬間、愛城華恋が意識した「視線」は紛れもなく今華恋のことを見ている我々の視線であって、あの一言によって、ただの観客に過ぎなかった我々が一気に物語の文脈に組み込まれ、映画館が一転して「舞台」に、観客は「客席に座る観客の”役”」を強いられます。
 確かにあの瞬間に集中が途切れるというか、映画に没入して華恋たちに感情移入して意識の外に追い出されていた「私は今映画を見ている」という事実をメタ認知し、自分が「公開日に映画館に来て楽しみにしていた物語を見ている観客の一人だ」という現実を思い出してしまい、ほんの少しスクリーンが遠のき、画面をわずかに遮る前の席に座る観客の頭やそれまで気にならなかった空調や衣摺れの音を意識するという”体験”を強制的に味わうのではないでしょうか?「劇場でしか味わえない{歌劇}体験」っておそらくこの「気づき」の感覚のことではないかと思います。(諸説あり)

劇場版異化効果2

 もしそうだとするなら、ほぼすべての観客があの華恋の一言で衝撃の濃淡の差はあれどこの”{歌劇}体験”を経験しているはず(人によっては「現実に引き戻される」感覚なので映画の終盤に訪れるため、あまり気持ちの良い感覚ではないかもしれませんが)だということで、映画館で映画を見ながら「舞台」を体験するっていう構造になっているというのが面白いと思います。またその意味で、2次元と3次元の壁を超越しているし、演劇という構造の本質に迫ってもいるし、12話のキリンのセリフ「なぜわたしが見ているだけかわからない?」より複雑で気づこうとしなければ、体験しているのにこの体験を意識できないよう巧妙に仕込まれているということです。


 つまり、この“{歌劇}体験”を意識的に理解してもしなくても観客全員に強制的に味わわせているのに、普通は映画に没入しようとすればするほど「今現実に戻された」ことを無意識に記憶から消そうと試みるため、(オタクが経験的に歌舞伎における黒衣や舞台のコロスを時に「存在しないもの」と捉える「見立て」の文化を理解する人種であればこそ)絶対に華恋の「見られてる!?」の言葉にコンマ数秒現実に引き戻された”体験”をしているはずなのに、(なぜなら「見る」側の私たちは「見られる」側の華恋には一時的に感情移入することはできなくなるから、一瞬グッと突き放されるイヤな感覚を味わっている)それを「あってはならない感覚」として無意識下に追いやってしまっているということです。そして、映画館から出る頃には、自分が「体験」したことさえ意識できなくなっているかもしれないのが、本当に凄まじい趣向なんですよ。(恐ろしや…)





幼い頃「運命を交換した」二人

 ♯1の頃から疑問だった「幼い頃運命を”交換した”」って表現の違和感、本来「約束」は「交わす」もので字は同じだけれど「交換する」ものではないし、「運命」を「交換する」という日本語はどこか引っかかります。

 ところが、やっぱり「交換」してましたね…あの『スタァライト』を見た日、劇場の階段で幼き華恋とひかりがフローラとクレールを真似して撮った写真では、確かに目を閉じて抱かれる(青いレヴュー服を纏ったひかりのヴィジュアル)方がひかりで、その子を優しく抱きかかえる(赤いレヴュー服を纏った華恋のヴィジュアル)のが華恋でした。

 元々ひかりは「自分はトップスタァにはなれないかもしれない」と思っていた(死せる舞台少女)だったのに無邪気な華恋が何気なく言った約束によって再びスタァを目指すことになった=「舞台少女として蘇らされた」訳です。だから幼い二人が見たレヴュー服の華恋とひかりは、ひかりが華恋に抱かれていて、華恋が手を取るとひかりがゆっくりと目を開く(=目覚める、蘇る)
 でも映画の終盤では、スタァライトを演じきった後の自分には「何もない」と気づいて死んでしまった華恋をひかりが抱くという逆の構図になっているし、「死んでしまった舞台少女愛城華恋を蘇らせるのはひかり」という具合に見事に運命を入れ替えられていました。


(追記)「運命を交換」に相当する描写

○最初に手紙を送ったのはひかり(華恋を誘う「スタァライト」のチケット)だが、舞台を見た後(運命を交換した後)には、華恋が手紙を送ることになる。アニメでひかりが失踪した時もひたすらメールを送り続けたのは華恋だし、そのメール(手紙)が「運命の舞台」のチケットとなった。一方で劇場版では、ひかりの「かれんちゃんへ」の手紙を焼き尽くすことで華恋が生まれ変わる。

○「負けたくない」と思っていたのはひかり。自分がただのファンになってしまうことが許せなくて華恋の下を去ったのはひかりだった。(だが、映画のクライマックスで華恋も「ひかりに負けたくない」と思うからこそ舞台に立っていたとわかる。まさに「あなたは私、私はあなた」。)





赤い線路、東京タワー、血、トマト、上掛け

 最後ひかりが自ら留め具を切り、上掛けが舞って行き、それからまひるたち他の7人の上掛けも空に飛ばされていくシーンがありましたね。
 これまでの経験から、上掛けが取れるということは、「敗北」とか「キラめきが奪われた」と短絡してしまって初見では???となりましたが、その意味では、文脈的にも画面の晴れやかなみんなの表情とも整合しません。

 改めて考えてみたところ、上掛けは空に舞い上がっているだけ地面に落ちてはいないのです。どなたかが「空に羽ばたく鳥のようにも見える」と言われていましたが、確かに舞台少女のキラめきが昇華して大空に羽ばたいていくかのような開放感がありました。また、個人的にどことなく大学の卒業式で卒業生が帽子を放り投げる様子にも通じるなと感じました。そういう訳で、あの舞い上がる上掛けは、舞台少女たちのキラめきの象徴であり、それが新たなる世界へ羽ばたいていく、そして彼女たちが学園を卒業することを祝福しているようなイメージなのかなと思いました。

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 今作のキーアイテムである「トマト」は、舞台少女の燃料となり、やがて「血肉」となります。映画の中で何度も登場する電車に赤いラインが引かれていたことも印象的で、ばななと別れた後(電車が脱線して)華恋が線路の上を歩いていく場面では線路が赤く塗られていました。また華恋とひかりの運命である東京タワーは「赤い塔」です。トマト、線路、東京タワー、血、その他とりあえず印象的な「赤」いものは、おそらく舞台少女キラめきのメタファーなのでしょう。

(追記)最後ひかりが「ポジションゼロ!」宣言をしてから自分で上掛けの紐を切る→上掛けが空に舞う意味について、ひかりの上掛けが空に舞い上がるのを結構長く映した後、香子が空に放るカットで上掛けと一緒にボタン(星)も空に投げてて、「そうか星(スタァ)は空で輝くものだもんな…」って普通に納得してしまった。ロンド・ロンド・ロンドでばなながスカートの中から星のボタンをバラバラと床に落とすシーンが「舞台少女の死」ならば、星が空に飛んで行く(もう地に落ちることは無い)ってことは、みんなそれぞれの舞台で新しいスタァになるって理解でよろしいんじゃあないかと思いました。



華恋の剣が折れる意味

 ちょっとここからは次回以降、見返した時に考えるように「まだよくわかっていない場面」を列挙します。(追記するかもしれません。)

①華恋の剣が折れる意味

②スーパースタァスペクタクルでひかりが勝つ理由

③ひかりの宝石の欠片のようなものが華恋の体内に入る描写
 
④東京タワー(運命)が巨大なポゼロに突き刺さる意味

⑤華恋の身体に「T」を刻むことの意味

⑥ひかりが勝つことの意味


(追記)主に①、②、③らへんの雑感です。

スーパースタァスペクタクルで華恋の胸にひかりの青い宝石みたいなのが沈む→剣が折れる描写について音楽と映像の美しさに思考が停止して正直考えるより心地よい体験に浸っていたいという気持ちもありつつずっと疑問でした。思うに、華恋のレヴュー服ってそもそも赤と青が配色されてて(赤基調だけど「赤ではない」ってのがずーっと引っかかっていて)、青い宝石はひかりのキラめきのようで華恋のキラめきでもあったのか?と思い始めました。

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やっぱり愛城華恋のレヴュー服は(上掛けやパーソナルカラーのせいで赤のイメージだけど)実は青い部分の方が多いし、華恋自身のキラめきが青という可能性が十分考えられます。そうすると最後のシーンも「もともと自分に内在していたキラめき(舞台少女としての情熱)をひかりから取り戻した(ひかりを直視することで思い出した)」みたいなことなのかなと思えてきました。余談ですが、華恋だけタスキの部分が白い(他のキャラは赤)のが印象的で、本質的には舞台少女として中身がない、空っぽであった華恋をよく表しているようにも見えてきて恐ろしいです…

純那が狩のレヴューで砕けた自分の宝石を無理矢理剣に宿して立ち上がる表現があったので、各キャラの宝石=その人だけの輝き(色)を放つものだけど、華恋のキラめきって、つまり華恋の原点、舞台少女としての資質みたいなものって、幼い頃見た「スタァライト」であり、トップスタァを自分も目指そうと思える(向こう見ずな)姿勢であるはずで、(その幼い華恋のキラめきに目を灼かれそうになってひかりが華恋の元を去った訳でもあるので)やっぱり本来的に華恋はクレール(青)的な存在だったんじゃあないでしょうか。(舞台素人の幼い華恋だからこそ自分の実力も素質も知らずにトップスタァになれると軽口を叩けたとも言えるけど。)だから青い宝石を取り戻した後に握った剣が折れるカットがありますが、華恋の剣(運命を交換する以前の元々の華恋のキラめき)はずっとずっと短い…のでは?

そして舞台少女になってからというもの、華恋はひかりを追い続けていた訳で、劇団に入ったのもひかりに憧れたからだし、愛城華恋が舞台少女になった日から華恋はずっと自分もひかりに負けまいと頑張ってきた=スタァのひかりを追いかける存在(=星の光を見つめるフローラの相当する「役」)になったのではないかなぁと。
だから「レヴュースタァライト」の最後のセリフは、華恋がずっと演じてきた”塔の頂上で星の光(=スタァのひかり)に目を灼かれる者”のセリフだったんじゃあないかなと思います。多分。

正直、最後ひかりが勝つ理由よくわかっていないんですが、何回も映画見ていると「塔の頂上であなたの目を灼くのはひかり」って歌ってるので、「まぁそりゃそうだよな…」みたいな感じで捉えています。あと、アバンタイトルの冒頭5分、確実に最後のレヴューのアナロジーになっているので、何か見落としてるような気がするんですけど、うまく言葉にできません。以下どなたかの考察のヒントになれば…

・トマト(舞台少女・愛城華恋の心臓)が破裂する

・華恋はひかりを刺さない(腰が引けている)

・約束タワーの明かりが落ち、崩れてしまう(吹っ飛ばないし刺さらない)

・塔から立ち上るポゼロは灰色(棺桶の色)



 と、まだまだ、無限に考える余地がありますが、一旦ここで終わろうと思います。
 改めて、脚本、作画、音楽、メッセージ、小ネタに至るまで本当に作品愛に溢れる素晴らしい映画だと感じました。この作品に携わったすべてのスタッフに感謝します。ありがとうございました。



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