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可哀想ってことばについて

久々に創作マンガを描きました。
しかもフルカラー。カラーの練習をしたく、一枚絵はあまり好きじゃないのでマンガを塗りました。結構楽しかった!また描きたい。

今回描くきっかけになったのはこちらの漫画賞。

「能力」「独りぼっち」「隣」の単語をマンガの何処かに散りばめて、ハッシュタグを付けて投稿するだけというもの。
セリフの一部指定ってめっちゃ面白そうじゃん!と思った私は早速ネタ出しを始めました。

「独りぼっち」がなかなかの曲者でした。

で、思いついたのがこれ。

最初の走り書きネームはこんな感じ。
最初の段階はかなりキャラが尖ってます。仕上げていく中でだいぶ棘が落ちてるけど、それでも尖ってる。

もうちょっとここをこうしようああしようと変えて、仕上がったものがこちら。

この作品で伝えたかったもの


「可哀想」な人を作るのは、その環境や、その人自身ではなくて…
そう思う価値観を持つ他者であるということ。

修学旅行とか、理科の実験とか、何かそういうグループ活動するときに独りでいると「●●さんをどこかに入れてあげて」みたいになるんですよね。
で、その時の空気って、何か、なんとも言えないんですよ。
「独りぼっちで可哀想」って。

どこにも入れて貰えない人って本当に「可哀想」なのかな。
集団の輪の中に入ってることがいいことなのかな。

大学時代の仲間で「本を読んでいるのが好きだったから高校時代は独りで過ごしてた」って人がいて。
「誰かと一緒にいるとその都度気を使わないといけないから煩わしい。だから出来るだけほとんど人と喋らず本を読んで一人で過ごしてた。一人は気楽で良かった」って言ってる人がいたんですよ。

私はどちらかというと、群れてないと不安というか。
それこそ「一人でいたら可哀想って思われるかもしれない。それは嫌だからどこかグループに所属しておかないと」って、ほんとはしんどいのに無理して集団の中に居たタイプの人間でした。学生時代は。

私は、その人の話を聞いて、自分が過ごしたい環境をちゃんと自覚して貫き通してるのかっこいいなぁって思ったんです。

そして、自分で選んでそうしていることを、周りが勝手に「可哀想」って言ってくるのってすごく余計なお世話というか。

子育てしててもそう。

うちの長女はちょっと弱視傾向があって3歳から6歳までメガネをかけてました。
弱視のときのメガネは治療用装具って言って、見やすくするためのものというよりはそれ以上視力が落ちないように低下を抑えるもの。
そして成長に伴い低下を止めた視力がまた上がるようにかけるものです。

現在は視力が上がったので、メガネはかけてないの。
でもメガネかけてる間「こんな小さいうちからメガネかけるなんて可哀想」「かけなくてもいいんじゃない」って言ってくる人が一定数いるんですよ。
いや可哀想って思ってメガネかけさせるのやめる方が本人にとって良くないじゃん。もっと視力悪くなるし、それを放っておくと斜視にもなるかもしれないんだよ。

定期的にネットで話題になる幼児用ハーネスも、ペットみたいで可哀想って言う人いるけど、ハーネスつける子って多分、勝手にどっか行っちゃうタイプの子ですよね。
ハーネスなしでどっか行って事故に合う可能性を考えたら、むしろハーネスがある事でその子の命は守られてると思うんですよ。
そういうタイプの子と手を繋ぎ続けるのって実は結構大変だし。

だから、可哀想、という言葉は本人の気持ちや、その環境にしている理由は無視した、言う側の価値観なんだよなぁと私は思っていて。

”自分は、自分の家族はそうあってほしくない”

そういう想いが「可哀想」って言葉になるわけで。

転んで泣いてる子どもに「痛かったね、可哀想にね」みたいに言うのはいいと思うんですよ。相手に痛みの自覚があるから。
痛みを自覚してない相手に言うのは何か違う気がするなと思っています。

なのでその他者からの一方的な「可哀想」を跳ね返す人の話を描きたかった。

今回課題に「独りぼっち」が入ってたから「独りぼっちだけど可哀想」じゃないキャラを描きたかったのです。

反省点


リプとか引用とかを全部見たわけではないけれども「課外活動サボってドヤられてもさぁ…」っていう意見が一定数。

「集団入りたくないんでグループ入らないでその授業休みます」ってただのわがままじゃん、と。

この点がすごく失敗したと思いました。
確かにそうだわ…と。

「学校サボって個人で活動することを全肯定するのがかっこいい!」みたいな話になってる。そういうメッセージを作品に込めるつもりはなかった。

完全に失敗です。なのでツイートは消します。
1800いいねぐらいまで伸びてたからもったいなかったけど。
ツリーで謝罪しようが修正版をぶら下げようが、そう受け止めた人から広がりだしたものは止められないので…

私は大学時代の「あえてひとりで過ごすことを選んでた」って堂々と言ってる人がかっこいいなと思って彼女をモデルにしたのですが、その人もさすがに授業をサボってまで一人を貫いたわけではない。と思う。多分。

本当に伝えたい事が、場面やセリフの選択によって狙っていない解釈になることはすごく良くなかった。

学生の独りぼっちを可哀想って言われる場面として、自分が一番最初に思い浮かんだ場面がグループワーク系の活動だったからそれを描いたけど…
もっとよく考えた方が良かったですね。

ほんと、頂いた意見本当にごもっともです。

一人が好き!なキャラを立てようとしすぎた結果、お話で伝えたいことが霞むのはかなり失敗です。今回一番の反省点…。


キャラが生きる時間のどこを切り取るかという難しさ


マンガって、エッセイ漫画にしても創作マンガにしても「そのキャラが生きるどの時間を切り取るか」って凄い難しいです。
切り取らずにすべて描いてしまうと、結局なんのお話なの?みたいになってしまう。だからどこかで切り取らないといけない。

4Pという短いマンガであれば、本当に切り取る場面をどこにするかは大切です。

だから今回のお話、先生が声をかける場面をお昼ご飯の時間に変えてみました。前のときは言葉を強くするために敬語にしてなかったけど、女の子のセリフを敬語にもしてみました。

あと、夫に3ページ目の「女の子の顔が怖すぎる」って言われたから表情と影の付け方を変えたことと「さくらんぼと独りぼっちの女の子の何が同じなの?」って聞かれたことから、微妙に台詞回しも変えてみました。

読んで貰えるとわかるのですが、冒頭のものとだいぶ印象違うと思います。
(セリフが変わると鞄にしまってるもの、お弁当に見えなくもないよね…?)




だいぶ女の子の面倒な感じがなくなった気がします…!

でもこっちで伸びたら伸びたで、今度は「そうやって言われた私怨的なものを感じる」みたいな意見が出たりもするかもしれない。
先生の言葉、それ、あまり面と向かって言わんやろって言い回しになってる気がするし。

伸びるとほんと「そう解釈するかー」みたいな人が出てきて、本当に物語作るのって難しいよなー!!っていちいち実感します。

人に意見聞いてもみんなそれぞれいろんなこと言うから聞けば聞くほど迷っちゃって決まらなくなる。マンガってホント奥深い。

一定数「なんか嫌だな」って感じる層が出てしまうのは仕方ないんですよね…。

世界は2:6:2の割合で、「いい」って感じる人と「いいか悪いかはその日次第」って人と「何が何でも嫌」って感じる人がでるそうで。

「その日次第」の人をいかに「いい」側にしてもらうかが、作品を前向きに読んでもらえるかの大切な部分なんだよなぁ。

描き直した女の子の学校生活の中に、最初に描いた「課外活動を拒否する場面」もあるかもしれないんですよ。

でも、お昼の場面を切り取るか、課外活動前の場面を切り取るかで読む側の受け取り方が変わっちゃう。

伝えたいことを伝えたいかたちで伝えられる作品作りをしていきたいです。

サポートいただけたらそれも創作に活かしていきますので、活動の応援としてぽちりとお気軽にサポート頂けたら嬉しいです。