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夏休みの日記って必要?

夏休みも10日以上すぎたところで、大変な事に気づいた。

下の子の幼稚園で、毎日の出来事を書くという課題が出ていたのだ。
それの存在をまるっと忘れて、真っ白けのものが出てきた。

去年までは毎日の天気を書くだけだったので、それならネットで適当に検索すれば過去の天気も全部出てくるので簡単だった。

その、簡単なものですら、本人をその気にさせて、天気の絵を描かせることはそれなりに大変だった。

次女はとても自由に生きているので、その日は晴れだったと言ってるのに「私は傘を描きたい」などといって勝手に天気を変えてしまうなどしたし、雨ではなくハートが降る日もあった(ハッピー!)

自由。

でも、母は君のその自由さが好きだよ。

しかし今年のものは違った。
天気に加えて、その日あったことをかるく書く記述欄があったのだ。

いや、幼稚園児に記述欄て。
せめて絵日記だろうよ。文章て。

とりあえず一週間分の記憶をさぐった。
この日は公園に行ったねとか、海に行ったねとか、何となくそういう話をする。

私「公園では何が楽しかったか、書いてみようか」
娘「じ、かくの、いやだ。」


~完~


そりゃそうだろうよと思った。

書ける子はもちろん書けると思う。
でも、その日あった出来事を振り返って文章にして毎日書けるような子なんて、全体のほんの一握りだと思う。

いや、いるのか?園児に?

そもそもですよ、大人だって、その日にあったことを振り返って記録するなんてことは、本当はやったほうがいいのかなと思いながらもやれない人の方が圧倒的に多いわけじゃないですか。

子どもにとってみたら習慣化しているわけでもないのに、楽しい楽しい夏休み、遊びまくったその日の終わりになんで文を書かされなければならないのか。文字をようやく書けるようになってきた、ぐらいの年齢なのに、文って。

ちなみに次女は字はほぼ書ける。文章っぽいものもたまに書いている。
私がマンガを書いている影響で、絵を描いたらその横にフキダシのようなものでセリフを書いたりしてちょっとした絵本のようなものも書く力はある。

でも日記で字を書くのは嫌なんだそうです。
わかります。書けって言われて書く日記なんて書きたくないよね。

私も育児日記的な感じでほぼ日手帳にその日あったことを書き残しているのだけど、毎日なんて描けていない。
一週間分ためて遡るとかもザラだ。

そしてそれは、未来にいつかこんな日々があったなぁと振り返ってニヤニヤしたいという自分の欲求があってこそ出来ることであって、誰かに見せるために(娘には見せるかもしれんが)提出するための課題として日記を書けなんて言われたら絶対書きたくない。

夏休みの宿題として「日記」は定番課題。

でも、なんでそれをやる必要があるのか?を改めて考えると、存在意義が本気でわからなくなった。

自分が子どものころに描いた記憶を遡ると、自分はそれなりにマメに毎日宿題を少しずつやるタイプだったにも関わらず、日記課題はそこそこまとめ書きしていたように思う。
そんで、思い出せない日はものすごい適当なことを書いていたように思う。

天気も忘れていたので「どうせ確認なんてしないんだろう」と適当に天気を書いていたように思う。

…そんなことをやらせる、意味とは…?
あれをやったことが、今の私の一体何の糧になっているんだ…?

日記って、やらされるものじゃなくない?
人に見せることを前提に書くものじゃなくない?
それによって評価を受けたりするものでもなくない?
先生も生徒全員の休みの過ごし方とかそんな興味ある?
むしろ、読むの大変じゃない?

なんか「遊んでばっかりは良くないから何でもいいから課題をやっときなさいね」という意図が見え隠れして、天邪鬼な私はそれに逆らいたくて仕方なくなる。

いいんだよ!夏休みは!!遊べば!!
全力で遊べ!!子どもはとにかく遊べ!!!!

大人だって、「盆休みに何をして過ごしたかを書いて職場に提出しなさい」なんて言われたら「ハァ!?」って思うはずだ。
大人がやりたくないことを、やれないことを、大人より未熟な子どもにやらせるんじゃないよ(それを言い出すと宿題という概念そのものがかなり揺らぐけども、宿題というものがあることで、動画やゲーム三昧の日々に軽いスパイスが入れられるのである程度はあっていいと思う)

色々考えた結果…
私の中に”日記、無いわ~”というスイッチが入った。

上の子は、多分通常級なら日記課題があるのだろうけど、支援級には特に無い。いやあったかもしれない。私の視界に入ってなかっただけで。
やれそうならやってください、ぐらいのスタンスで出されていたら「あ、やれそうにないです」って全然頑張らせようとしないと思う。

文字や文章を書くことが大嫌いなのに、興味もないことを唐突にやるように言われてやれる子ではない。
無理強いして書くことが嫌になるリスクの方がでかい。
私は、本人が書きたいと思ったその瞬間に背中を全力で押すだけである。

面倒な保護者ですな。

とりあえず次女の課題に関しては「この日はここに行った」などのメモをその日付の横に小さく書いた。

7月28日 こうえん
7月29日 どうぶつえん


…みたいな感じに。

「どうぶつえんでシロクマをみました」とか書くのはどう?って言おうと思ったけど、親に言われた通りの文章をただ書かせることに結局何の意味があるというのか。人に言われて、言われた通りの文章をただ書く能力なんて別にこの先の世界で絶対必要とされない。

そんなものはAIがやれる。
むしろAIは、言われた事以上の文章を書いてくる。

自分が思ったことを自分の思ったように言語化するスキルがこの先の世界には必要なのだ。

ということで。本人に「どこに行ったかは書いといたから、その日思ったこととか、なんか書きたいと思ったことがあったら書いてみて」とだけ促してみた。

そしたら、動物園の日の、文字を書くマスにおもむろに娘はキリンの絵を描いた。

きみ、キリンほとんど興味持ってなかったやないか。
どっちかっていうと乗り物に執着しまくってたやないか。
というか、文字を書くマスに絵を描くとか自由すぎやしないか。

彼女の日記は、象形文字のような日記になった。

唯一、字を書いたのは誕生日の日だった。

「たんじょうびおめでとうございます」と。

いや、自分の誕生日の、日記。

誰に向けてるのその言葉。

いいわー、色々最高だわー。

そして殆どの日は真っ白である。
いいのだ、それが、6歳児のありのままなのだ。

何でもいいから書きなさい、と体裁整えて大人が考えた文を埋めたりする必要なんてないのだ。

日記なんて、書きたいと思った時書くものなのだ。

文ではなく、絵でも、象形文字でもいいのだ。

そしてそれは、誰かに見せるために書くものではないと思う。



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