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価値観の違いって難しいなぁと思った話

子育てって大変ですよね。

なんで大変って、多分、それを1人で抱え込んでしまうからだと思うのですよね。

ひとりで抱え込まないようにするには、誰かに頼ればいいんだと思うんです。
でも、上手に頼れなくて。
むしろ、頼ろうとする方が相手に気をつかってしまって大変で。

大変だって思ってるお母さん同士で、子どもをお互いに見あう環境があったらきっと楽になるんだろうなって思ってる。
だって本来、サルってそういう生き物だから。
群れはみんなの子をみんなで見るんです。

でも人間ってむずかしい。

みんな価値観が違いすぎる。

私なんざ、食べ物も着るものも日々の生活も。
さほどこだわりなく子どもを育てていますけど、ちゃんとしたものを食べさせたい親もいて、ちゃんとした格好をさせたい親もいて、習い事をちゃんとさせたい親もいて。

私が唯一、ちょっとこだわってるなぁっていうのは「Youtubeに制限をつけていること」かな。
あれはなんか、抜け出せない世界のような気がして怖いのですよね私は。

なので我が家の長女ハナには以前作った「身辺自立シート」でポイント貯めたらyoutube観られるという条件が付いています。

でも、外に出た時は別にいいんですよ。家の中のルールなの。

youtubeめっちゃ見せてる家庭にいったときに「あなたはダメよ」っていうのは別に言いたくなくて、そういう時は見ていいと思ってる。

でも相手は気を使って「ハナちゃんは普段youtubeあまり見てないからあなたが我慢しなさい」って相手の子に我慢させるんですよね。

なんかそういう、価値観の違いによって誰かが我慢するみたいな状況になるのが嫌なんですよね…。

食べ物にこだわってる子と遊ばせるなら、出すおやつは手作りじゃないとダメかなとか、無添加じゃないとダメかなとか。
自分の子にスナック菓子とか食べさせてたら何を思われるかなとか。

着るものにこだわってる子と遊ばせるときは自分の子の服も何かちゃんとさせないと何か言われるかなとか。

そういう事を考え出すと、本当に疲れちゃうんですよね…。

相手は気にしてないかもしれない。
でも、気にしているかもしれない。

別にうちはうち、人は人でいいよね。

それぐらい気楽に子育てする仲間が欲しいのですけど。

なかなか、いないです。

先日、自然の中で子どもをのびのび遊ばせようという会に入っていたところから抜けました。

それもやっぱり、私がその価値観に合わなくて苦しくなってしまったから。

自然の中で遊ぶということは、事故の確率が上がるということ。
だから「リスクマネジメント」についてとてもよく話し合っていました。
確かに事故を避ける事はとても重要な事だと思うので私も最初は真剣に考えていたのです。

でも集まるたびに「あれが危険」「これが危険」「もし自分の不注意で我が子や他の子が死んでしまったら」そういう話がどんどん増えていきました。

実際自然の中で遊ぶことに危険が多い事は重々わかっているんです。

でも「常に誰かの安全について考え続けなければいけない」集まりは私にとってはとても苦しかったです。

メンバーの中で誰かがケガをすることがあればきっと「なぜあの事故は起こったのか」「大人が出来たことは何か」「今後どう考えていけばいいか」の話し合いがされるのだと思いますが、そこまでそれを大切にする人と私の価値観はちょっと合わなかった。

「危険意識も大切だけど、そればかりでは苦しい」ということを伝えたのですが「その甘さが誰かの死に繋がるかもしれない」と。

子ども同士をただのびのび遊ばせたいと思って入ったけど「自分が気を抜くと誰かが死ぬ」「もしそれが起こったとき責任はだれにある?」…そんなプレッシャーが常にある仲間って、楽しいのかな。
子どもがのびのび遊ぶために、大人はそこまで気を回さないといけないものなのかな。

私がプレッシャーに感じすぎなのかな。

私は出来るだけ、唯一人間だけが地球上で特別な生き物だと思わないようにしていて、サルだろうが犬だろうが何だろうが、同じ地球上の生き物だと思うようにしてます。

どんな生き物も小さい生き物ほど不慮の事故で死にやすい。
もちろんそれを死なせないようにするのが親の役割であるわけだけども。

だからといって、死ぬかも、ケガするかもと怯える事で行動範囲を狭めることはしたくないのです。
ケガを知らない子は、知識だけでケガを知り、人が痛がるのを見てただケガをすることを恐れ、行動しなくなっていくから。

遊びですりむいた膝の痛さを知っている子は、遊ぶ楽しさを知っているからこそすりむかないように遊ぶ術を身に付けていく。

大人の個体が常に安全を確保して全て先回りして助けてあげるのは「本能的」ではないなと思っているのです。

自分で危険を体感して、自分で危険を判断できるようになることも成長の中でとても大事な事だと思う。

でも、『子どもを出来る限り安全に遊ばせてあげたい』その価値観を否定する気は私にはまったくない。人は人のスタンスなので。
ただ、私はそれに合わせられないと思ったのでそこから抜けました。

むしろ、知能が発達した人間ならばそう思う親が多い事の方が当たり前だと思っています。命を守る色んな道具もあって、あるならあらゆるものを使って我が子を守りたいと思うことはきっと当たり前なんだと思う。

私の頭の中が、半分猿みたいに野性的なまんまなだけ。

猿山見てたら親猿が子ザルにそんなびったりついてることはなくて、子ザルは同士じゃれあって山のてっぺんから落っこちたりしてます。
ああいう「親が管理するんじゃなく、野性的にほったらかす」育児を私はしたい。
…でも、そんな価値観の人ってなかなかいないんですよねぇ。

そして、世間としても「ほったらかす」ことをやると「親は何やってんだ」ってなるんですよねぇ。

ああ、子育てってそんなに重たいものなのかな。
みんなで一緒に楽しく支えあって、無理しないで生きていけないのかな。

命を背負って生きる重さ。それって、多分経験した事がないひとにはわからないんだろうなぁ。その重さ、少しでも軽く出来ないものかなぁと。

人生を歩くために、持って歩く必要がある荷物があるとしたら。

子どもを産んで一番おおきな「命の責任」という荷を、親はしばらく持つことになります。

それを抱えるために、捨てなければいけないものがあります。

自己犠牲が多くなると苦しくなる。
苦しいから、仲間が欲しくなる。

私は、育児の仲間とは
「お互いの荷物を持ちあう」
意識でいたいんです。

それはつまり
「誰かの荷物も持つけれども、自分の荷物も持って貰える」っていうこと。

相手の荷の重さや特徴を知り、自分の荷の重さや特徴を知ってもらう。

「この荷物重くて大変だねえ」「いやいやこの荷物も重いじゃない」って笑いあえる仲間。

でもどちらかから、価値観の押しつけがそこで出てきてしまうと
「誰かの荷物は持たされて、自分の荷物はお願いしづらい」っていう関係になるんですよね。

「変なもの食べさせちゃだめ」とか「ケガをさせちゃだめ」って書いてある荷物を持つのは、私は怖いんです。

そうなると、しんどくて…。

いちいちこんなしんどくなる私は、きっと共同で育児するのに向いてないのだろう…。

そんなことを思いながら想いの丈を漫画に書きなぐったのがコチラ。

Twitterにあげたら思いのほかバズってびっくりしてます。

あれ?自己新じゃないかな、これ。
超絶走り書きなのに…!!

今回文章にした部分とこの漫画の内容はあまりかみ合わないかもしれないんですけど。
「命の重さを、一緒に笑って持てるような仲間が欲しい」
「そしたらきっと自己犠牲も少なく、ただ子どもの成長を笑って見守れるようになるんだろうに」
って想いが、こういう漫画になりました。

未来の自分が、何も押し付けずにそっと相手の大変さだけ持ってあげられる人になれてるといいな。

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