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「ハゲてきたら潔く全部剃るわw」←これ浅いです。

はじめに

ルッキズムが問題視されるようになって幾星霜、外見を揶揄した表現が控えられるようになってきた。個人主義や個性が重視されたことも影響しているように感じるが、それでもなお公然と揶揄することを認められているステータスがある。すなわち、「ハゲ」である。

「ハゲ」とは、髪の毛のない状態のことである。特に、元はふさふさだった状態からない状態に移行することを「ハゲる」として扱われる。「ハゲる」ことはネガティブに受け入れられる事が多いが、本記事では髪のない状態自体ではなく、「ハゲてきたら自ら頭を丸めるべき」という風潮に物申したく考えている。

あらかじめ断っておくが、本記事は「ハゲ」自体を決してネガティブに扱いたいわけでも、ましてや揶揄したいわけでもない。ただ髪の毛があった状態から無くなろうとする過渡期にある諸兄が、決して「頭を丸めなければならない」という固定観念にとらわれず好きな髪型を選択する手助けになればと祈るばかりである。

本テーマの定義付け

「ハゲ」について

上でも触れた通り、「ハゲ」とは、髪の毛のない状態のことである。特に今回は生来、あるいはもとよりスキンヘッドを選択した場合ではなく、不本意ながら従来の髪のある状態から変化を強いられた状況を「ハゲる」として定義する。
逆に、「髪の生えた状態」を今回は便宜上「フサフサ」として表記する。

「潔さ」について

いさぎよ・い【潔い】
[形][文]いさぎよ・し[ク]
事物風景などが清らかである。汚れがない。
「―・い朝景色飽かずに見恍みとれている」〈風葉・五反歩〉
思い切りがよい。未練がましくない。また、さっぱりとしていて小気味がよい。「―・く身を引く」「―・く戦う」
道に反するところがない。潔白である。「―・い態度を貫く」

https://kotobank.jp/word/%E6%BD%94%E3%81%84-431792
コトバンクより引用

コトバンク様より引用させていただいたが、今回のテーマの場合2が適した意味合いだと考えられる。すなわち「フサフサ」が損なわれることを、未練がましく思わないといった意味合いが、今回の「潔さ」だと言える。

「頭を丸めること」が「潔い」とされる理由を考える

一般論として多くの人に受容されるこの言説だが、一体何を持って潔いのだろうか。
先ほども述べた通り、「フサフサ」から「ハゲ」への移行は、多くの人にとって後ろめたく感じられている。これ自体の理由はパーソナルな要素を多く含むので議論を控えるが、きっと従来のアイデンティティの喪失による不安定さの影響が多分に含まれると考えられる。
「ハゲる」ことがこのアイデンティティの喪失とした際、即座に受けいれることは難しい。不本意な結果としての喪失は、得てして予期した事態を受け入れることよりも多くの困難を含む。
このつらい経験を受容すること、困難を乗り越えることが、「潔さ」の源泉なのではないだろうか。変化を受け入れる。これ自体は、決して変わることのない環境の中に身を置く我々の尊い姿勢であると私は思う。

受容とは逆の、抵抗の美徳

私が問題視するのは「(自分から)全部剃るわw」の部分である、先程も述べた通り、変化を受け入れる姿勢そのものは誰にも否定できない、尊いものである。

しかし、それは変化を受容しない、徹底抗戦の姿勢自体の価値を否定するものではない。

例えばドラゴンボールでラディッツが地球に襲来したとき、悟空が「あ~もう詰んだ!息子拉致されたけどドラゴンボールで生きけぇるさ!」と言ったら、きっと私がピッコロなら悟空単体を魔貫光殺砲で撃ち抜くだろう。
悟空は当時の実力ではどうあがいても勝てない実の兄ラディッツを、自らの命と引換えに宿敵のマジュニアの必殺技によって退治することを選ぶ。この選択は、脅威に対して身を犠牲にしても乗り越える悟空の覚悟によって実行され、多くの少年少女を魅了したのである。

あるいは、マリオがピーチを救うためにクッパを打倒を目標にたびに出るストーリーが、「そもそもセキュリティが甘くて~」のような小言とともに構成されれば、ルイージである私がマリオを何度も踏みつけて無限1UPを実行して残機を増やそうとするだろう。
そうではなく、例え残機が減ろうと、ゲームオーバーになろうと、母親にゲームの電源を掃除機で引っ掛けて抜かれようと諦めずに立ち向かう姿勢。これが世界を魅了するマリオがヒーローたる所以だろう。

主体性の歪み

「ハゲる」という状況において、「自ら」髪の毛を剃ることは、必ずしも潔いかもう一度考えたい。
「自ら」髪を剃ることは一見すれば状況を自ら打開するように見え、潔く見えるかもしれない。しかし、本当にそれは「受容」なのだろうか。きっと「諦め」の介在した受容であり、それを「主体性」という蓋によって覆い隠す。そうした行為としても解釈できる。もちろん「ハゲる過程よりも、スキンヘッドの状態が良い」という判断も確かに存在するので、非難されるものでなく、それ自体も受け入れられるべき考えだ。一方で、「自ら頭を丸めない」という選択肢は、変化の過程そのものを受け入れることができ、あるいはAGA治療やカツラの作成によって抵抗する姿勢として受け入れられるものだ。決して「潔くない」からと切り捨てるべきものではない。本論の主旨はここにある。

さいごに

本論の結論は、「ハゲてきたら潔く頭を丸めること」は確かに受け入れられるべき選択肢だが、「ハゲてきても徹底抗戦する」こともまた受容されるべき姿勢だということである。本論によって「バーコード」や「カツラが落ちる」を見かけても、嘲笑ではなく共に乗り越える助けができるような、そんな社会になることを強く切望する。

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