日本語は一本の樹木だった


例によって、コメント欄に書きかけて、長くなってしまったので、それを自分の記事にします。

>すなわち、教育とは対決に他ならない、その結果、いつの間にか教える側と教えられる側の立場がすっかり逆転したとしても、つぎの世代が成長した証と受け止めるべき、とこの狂言『以呂波』は諭しているのだろう。

何百年もの昔の人が作った話と洞察が、今でも響くんですね。
スゴイ。
人間性の本質は変はらないってことですかね?

わたしは、
何百年も前の日本語が聞いてわかるのは、けっこうスゴイなと思ったりします。文法とか音韻とかの基盤が完成してるんだなー、と。

これを逆から見ると、日本語は、古典が統語や音韻構造といふ大地に根を張った幹であり、その後の近代日本語、現代日本語などは、幹から伸びている枝葉と観ることもできると思ひます。

だから、ネトウヨとしては、敗戦後の日本で、アメリカから教育使節団が来て、日本語と古典との繋がりを断ち切ったことは、許しがたい国家犯罪と思へます。

樹齢一万年の言語の木を切り倒した。

日本語として残ったのは、倒れた木の言葉、まさに「言の葉」としての日本語だけ。
死んだ幹の枝に残る言の葉。
次第に枯れた、やがて枝から離れて風に舞ふばかり。
舞ふ言葉は、noteをはじめ、SNSにはよく似合ふ。

共同体と切り離されて、個として風に舞ふ人たちの、呟きに、よく似合ふ。

国語の改変は、民族に対する犯罪と言へる。ビッグワードを使へば、文化的民族浄化だと思ったりします。

日本語を英語っぽくする言語クレンジング。
これは、現在も進行中。

外人にわかる簡易日本語。
日本政府を筆頭に、なんでもかんでもカタカナ英語でものごとを表現する。さういふことが、文化的民族浄化の証拠だ。
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と陰謀論ってるのが、ネトウヨです。


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