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早くもスピンオフ 神戸篇 (1) 日本帰国、その後

神戸の頃の話を聞きたいとのリクエストが1件寄せられたので、スピンオフとしてこれらについて書くことにする。

まず遡ると2014年の5月。アメリカに居た私は5年振りに日本へと一時帰国した。

ビザの関係などで5年もの間、帰国が叶わなかったが(正確に言うと手続きが面倒臭すぎて、帰国していなかった)「私がしばらく過ごす場所はここだ!」と思える職場に移ってから、ようやくビザ云々が落ち着いたので帰国することになった。何年もかけてようやく自身が満足するような職場に巡り合えたけど、実は私自身は30後半やしもうそろそろ日本に帰りたいなぁ、と漠然と思っていた。

そんな頃だったので、これまた漠然と以前から考えていた自身の知識&経験を活かしたジム開業を見据えての帰国となった。


私は経済的にはごく普通だが、とても良い家庭に育ったと思う。国家公務員の父と技術職のパートタイマーの母、年子の姉が1人。買って欲しいと思う物を全て買い与えられた訳では無かったけど、勉強や将来に向けてやりたいことに関しては一度もダメと言われたことは無かったと思う。参考書とか問題集の類ね。

日本で大学まで出して、卒業したらアメリカに行くと言い出してレストランで働き出した時は「この子大丈夫だろうか、、」と思わせたことだろう。

そしてアメリカ留学を一番応援してくれていた父だったが、卒業を前に他界してしまった。あれから14年以上経ったが、私の人生においてあの日々は忘れることは決して無いし、色々と行き詰まった時などは「父ならどうしただろう」という判断の基準になったりもしている。父をはじめ家族があれだけ応援してくれていたアメリカ生活だったので、家族のためにもアメリカで得られるものは全て得てから日本に帰ろう、という想いがあった。同時にこれだけ応援してもらえたんだから、得られたと思った時には家族がいる日本に帰国だな、という想いも感じ始めていた5年振りの一時帰国であった。

ちょっと話が逸れたが、アメリカで私が最後に居た職場は多くの同業者が羨むような職場だった。給料や福利厚生も良いし、住環境も素晴らしい。ファンも多く、毎週土曜の試合には約6万人のスタジアムに入り切れないほどの人々が集まる。そんな環境でATCで居られる事はとても名誉な事だった。

しかし同時にここでは書けないようなこともたくさんあった。そして私の中で「もうやり切った」感がだんだん強まってきた。

その想いの中での一時帰国。ただアメリカ生活を終えて、日本に帰りたい、と言っても、すぐに食べていく術がある訳では無い。それに日本に帰るのであればスポーツチームで働きたいと思っていた訳ではなく(だったらアメリカに残っていた方が良いし)、自身のジムを持ちたいと思っていたので、それを既にやっている人に会うための帰国にしようと、色々と計画を立てての帰国となった。

ここからは一丁前に有料にしたいと思います。ちょっと分かる人には分かる人たちが出てくるので、、最初あげた記事から内容を少し増やしたよ。笑

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