具体性

 具体性という抽象的な表現をしながら書く具体性についての具体的な意見を述べようと思うのだが、具体的内見というのはいつだって箇条書きを出来る限り多くしたもので、そしてその言葉全ては具体的な記号でしかないのだ。
 これでは何が具体的かということには自分で見つけるしか方法がなくなる。
 具体的ということは主観なのだ。主観の延長が客観であるような具体性をどうやらみんなごちゃごちゃにしてしまっている。
 例えば「どこまでも飛べる」という言葉があるとしよう。一つの文字を取ってみる。
「ど」
 これだけでは情報が何もないと思うかもしれない。最終的な「どこまでも飛べる」までにたどり着くための予測など、この時点では99%以上不可能だろう。「どこまでも飛べ」だとしたら、予測が可能かもしれない。残り一文字付け足して、元の文章にしろ、とかの暗記科目だったら丸をつけてもらえるだろう。
 さぁ、これで具体的というものの主観性というものの不確かさが証明されたのではないだろうか。
 というのは冗談で、こんなもの僕の詭弁でしかない。勉強ができないものの言い訳とでもとってもらおう。
 でもね、これぐらいの猥雑さの歪みから生じる疑問がどこまでもつけまとってきて拭えないのだ。
 具体的なものなど何もない。夢に逃げるだけでいいのだ。
 そこに変態がいるとする。そしたらその行動を愛せる人間もいるということがあれば、どうやら僕たちは抽象されていた世界の一部分でしかないのだ。それがプログレの衝動。不安定な均衡となった未来をどうにもこうにも、それが出会いだろう。
 レシートの裏に書かれたアドレスを見たときに浮かんだ疑問こそが世界なのだ。
 ここまでが不安定な人間。
 安定して文章に起こしていこうとすると、不安で不安で、死んじゃってもいいかなってメンヘラを起こしてしまわないための精神安定剤とでもなってくれる。それが創作への力になるのかもしれない。或いは自分に対しての殺意がどこに向かうでもなく、散らばった一部分が現れているだけなのだ。
 


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