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生穗今昔雑記 はじめに(序文)

小生の祖母の一統(注1)は、先祖代々から生穂に住んでいる。生穂内でも現在とは別の地域の出になるが、曾祖父の代に現在の地に居を構えた。

小生自身、生まれも育ちも現在地でこれまで過ごしており、幼い頃より父に連れられ生穂の祭に通った。小学生になると、白髭さん(注2)までの道中は太鼓(注3 以下、ダンジリと表記)に乗って行き、「乗り子」の居ない隙に太鼓を叩いた。
3年生から「乗り子」として叩くようになり、小学卒業までの3年間は毎年「乗り子」を務めた。
4年生には中寺(注4)で「廻り弁天(注5)」もあった。何も言われなかったのでいつものように学校に着くと、同時に校内放送で呼び出され「すぐ家に帰れ」と言われ、運動場で朝の体操をしている全校生徒を横目に、6年生の又従兄弟と3年生の弟と3人で一緒に帰った。
道中で「弁天さん行くぞ、法被来て直ぐ来い」と言われ、そのままダンジリに乗り込み中寺へ。当時、中寺への道は狭く、ダンジリが入らないので大人が小さい太鼓を担いで持って行った。太鼓は大人が叩き、「乗り子」は囃子を唄ったのを憶えている。

昔は、集会所で若中(注6)が、祭の寄合(注7)をしているところに「乗り子」も呼ばれ、その中で太鼓の練習をしていた。お菓子(ココナッツサブレ)を貰えるのも楽しみの1つではあったが、大人達が真剣に祭のことを話しているのを見聞きするのも、普段とは違う異世界のような感覚で楽しみでもあった。

大人達は皆一様に祭に熱く、「昔は〇〇やった」「〇〇のおっさんがあの時に〇〇しよった」など、祭について色々な話を聞いて育ってきた。
父も青年期から担いでおり、家庭でも祭が近くなると色々な話を聞かせてくれた。

長じて、小生も若中で役員を務め始める頃から、これまで聞いてきた話を後世に伝えたいという想いが芽生え始めた。伝えるにも正確な情報でなければ意味がないと考え、改めて「これまで聞いてきた話は本当なのだろうか?」と調べ始めたのが調査の始まりである。


小生は、生穂の祭・ダンジリから広がり、郷土史全般について調査している。祭・ダンジリの事だけを調べても、得られる情報は限られてしまう。
例えば、淡路の祭・ダンジリの事だけを記した書籍は5冊もないと思われる。祭関連でも10冊以下だろう。
このことからも、多角的に見ないと全体像は見えてこないと考える理由になる。
分野に依っては範囲が淡路島全域に及ぶこともあるが、祭・ダンジリと結び付くような情報を得る機会もあり、遠回りのようでいて核心に迫っているのだと思っている。

調査は、書籍・古文書・古絵図・古地図・古い写真等と、フィールドワーク・聞き込みである。書籍等はできる限り原典に当たり、証言は2人以上の一致を確実なものとしている。
残念ながら、地元の古きを知る古老は既に他界された方が多く、話が伝わっていないことが殆どである。その点は「もう20年早く始めていたら」と悔やまれる。

書籍等については、昨年の秋頃に某古書店主とのやり取りがあり、これまでに読了した書名タイトル・発行年・著者名などをエクセル管理することを始めた。
書籍等の点数は凡そ約150冊(部)をデータ保存している(2020年3月現在)。保存していない分を含めると、おそらく200冊(部)弱には目を通しているはずである。
ある学者は「その道の本を2000冊読めば、その道のプロと言える」と言っていた。淡路で祭・ダンジリの書籍は少ないので到底足りないが、書籍を読むということは、プロ(識者)になる手段である事が分かる。

然しながら、『生穂の祭とダンジリ伝記』というマガジン題目にしているので、郷土史については追々記していくこととする。関連する話は適時差し込んでいくかも知れない。

また、小生は文字についても留意している。記事タイトルの「生穗」も昔はこのように記されていた。このように旧仮名遣いや旧字体漢字も使用する。できる限り読みやすいように配慮するが、ご了承戴きたい。
閲覧時の文字化けなどがあれば、コメント戴ければ修正します。

最後に、
「伝統や文化を伝える」とよく言うが、ある人は「”文章化”することが”文化”」なのだと言っていた。確かに、口伝では正確に伝えることは出来ないだろう。書籍(文章)はそのまま将来に伝えることができる。
小生も、できれば先達に習って書籍・冊子等という形で地元に残して置きたいと考えているが、書籍にする分の情報を纏めるとなると片手間では難しいことである。少しずつでも纏めようとワードで文章化していっているのだが、そちらも中々進んでいないのが現状である。
そこで、小分けにしてnoteにすることで、反応によるやる気の向上・情報のまとめができるのではないかと考えた。少しずつではあるが情報の公開にもなる。
いずれは纏めて書籍化し、地元の町内会館や図書館、伝道者や子供達に配り将来に伝えていって貰いたいと考えている。
まだまだ調査しなければならないことも多々あるが、できる限り収集し公開していきたいと思っています。

令和弐年參月廿柒日   東海坊 雨山


注1 一統(いっとう)とは、淡路特有の言葉らしく、〇〇家の親類全体を指す。例えば、佐藤さんの一族なら、佐藤一統というように呼ぶ。
注2 賀茂神社の愛称。
注3 地元ではダンジリのことを太鼓と呼ぶ。
注4 西明寺の愛称。
注5 正式名称は「淡路巡遷妙音辨財天」。昔は「辨財さん」と言われていた。現在は「弁天さん」。佐野から始まったとされる。記事内にある中寺での「廻り弁天」は約40年ぶりの招待である。
注6 ダンジリの世話役・実働部隊の団体名。村内部落(組)の若衆で構成され、ダンジリの管理や運行など全て若中が取り仕切る。
注7 話し合いと同義

最後までお読み戴きありがとうございます。 調査・活動のためのサポートを何卒お願い申し上げます。