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キャンセル合戦の果て:なぜ私はキャンセルに反対なのか?

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ゆっくりしていってね!

記事はやく更新したかったのだけども、諸般の都合(「時間外労働」ってやつを考えた人、ちょっと前に出て?)で先送りに……。

今回は、アサシンクリード・シャドウズについての前回記事に反論を頂いたから、それに取り急ぎお返事させて頂くわ。

ご参考までに前回記事。

こちらが頂いた反論記事。


はじめに、次のように私の記事に触れられているわ。

次に、Googleで「シャドウズ 署名」で私の上の2番目に表示された、擁護派?の人のブログ。
典型的な突っ込みどころがあったのでリンクさせて頂きました。

アサシンクリード・シャドウズの「発売中止」を求める署名のお話|手嶋海嶺 (note.com)

厳密には擁護派ではなく、
「批判は良いけど発売中止を求めるのは表現の自由に反するから反対」
という立場の様です。

そして、署名した人は「表現規制派」だそうです。

【ゲーム】【社会問題】アサシンクリード シャドウズ騒動についてPart2 擁護派に反論します


批判・非難・反論で済まさず、「発売中止」まで求めるのなら、私の中では「表現規制派」という分類にはなるわね。

さらにコアとなる反論が続くのだけれど、本論に入る前に「キャンセル」について整理しておきたいのだわ。

キャンセルとは何か?

私が問題視している「キャンセル」とは何か。ここをまず明確にしておきましょう。


私が「表現のキャンセル」と呼んで問題視し、批判しているのは、特に

「他者の表現について、これまで認められてきた伝統的な権利を超えて、表現者にとって不本意な改変・削除・撤去・公開停止などを求め、実質的に表現の幅を狭める圧力運動」

を指すわ。

ちょっと遠回しな言い方だから説明を加えるわね? クドいかもしれないから、「分かってるわ!」な人は読み飛ばしてOK。

  1. 「他者の表現について」:他者の表現に限定している。自分の表現について自分の意思で改変・削除・撤去・公開停止する(キャンセルする)のは自由である。このような真に自主的なキャンセルについては問題視していない。

  2. 「これまで認められてきた伝統的な権利を超えて」:他者の表現についてキャンセルを求める場合であっても、その表現が特定の人の著作権、生存権、幸福追求権などを侵害しているなら、その人権相互の衝突を調整する手段として、当該表現のキャンセルが十分妥当と認められる場合がある。こうしたものもキャンセルではあるが、これも同様に私が問題視していないキャンセルである。(当然ながら、いかに「表現」であろうとも、私も著作権侵害の自由や、殺害予告・テロ予告の自由、プライバシー侵害の自由を擁護している訳ではない。これらは「これまで認められてきた伝統的な権利」を侵害する表現であり、個別具体的な議論は必須にせよ、合理的にキャンセルが検討される余地がある。)

  3. 「表現者にとって不本意な改変・削除・撤去・公開停止などを求め、実質的に表現の幅を狭める圧力運動」:ここで「言論による批判・非難・反論」の範囲を逸脱しているかを区別している。例えば苦情の電話やメールを執拗に繰り返す、あるいは本人ではなく所属勤務先や取引先、家族・友人を標的にする、集団による示威を用いるといった言論の中身というよりも、行動・行為による圧力を用いてキャンセルを達成しようとする場合が該当する。

アサシンクリード・シャドウズの発売中止を求める署名は、人数にモノを言わせた圧力によって表現の幅を狭めようとしていると私は判断したわ。もちろん、署名運動を行なう自由はあるから、そこは全く否定しない。むしろその権利自体は積極的に擁護するわ。けれど、内実がキャンセルを目的とした圧力運動だから、その点について「反対」「反論」「批判」しているということね。

これが分かりにくい人も一部にいるでしょう。ちょっとたとえ話をするわ。

日本にいるイスラム教徒が集まって、「日本でもイスラム教を国教にしろ!」とデモ運動をしたとしましょう。その自由はあるかしら?

答えとしては、当然ある。私もその権利は認めるでしょう。でも、その権利を認めることが、ただちに「日本に国教を設定し、かつそれをイスラム教とすること」に賛成だという意味じゃないわよね。そういうデモ運動が起きたら、おそらく多くの日本人と同様に、私も反対するわ。

そして反対した場合であっても、権利を認めたからといって主張内容に賛成したことにならないのと同様、反対したからといって「イスラム教徒がデモ運動を行なう自由そのものを否定した」ことにはならない。


こう考えれば、ある程度は簡単に整理がつくのではないかしら。

権利そのものの擁護と、その権利に基づいて主張されている内容への賛否は別よ。

反論への回答

さて。頂いた反論記事に戻りましょう。当該記事では私に対し、「一番大事なところが抜けている」として次のように指摘しているわ。

UBIは批判派に対して「差別主義者」というレッテルを貼り、意見を聞くことを完全に放棄しています。

(訂正と補足 : UBIが差別主義者と言ったのはUBI社員個人などへの過度な誹謗中傷に対してであり、そこは問題ないと思います。ただ、誹謗中傷ではない真っ当な批判に対しては一切無視しています)

つまり、こちらには言論で対抗する術が無い状態です。
ゲームは発売させて、プレイしてから散々批判すればよいとのことですが、それは向こうの主張を認めることになりませんか?

私達?私?は、批判したいのではなく、否定したいのです。
「あなたの言動を認めることはできません」
と伝えたいのです。
しかし、聞く耳を持ってくれません。
ならば、上の方から警告なりしてもらうしかないのでは?

署名している人の中に本当に発売中止させたいと思っている人は少ないと思います。
署名サイトのコメント欄でも、そういう様なことを言う人は結構居たと思います。

批判は無視できても、国や販売元等から「このままでは発売を許可できない」等と言われれば、態度を改めざるを得ないのでは?
少なくとも私はそういうつもりで署名しました。

私も表現の自由は守られるべきだと思います。
多分、その気持ちはこのブログ主さんにも負けていないと思います。

【ゲーム】【社会問題】アサシンクリード シャドウズ騒動についてPart2 擁護派に反論します

なるほど、真剣に考えられた結論として受け取ったのだわ。

けれど、回答としては「それがまさに私が反対している表現へのキャンセル運動だ」にしかならないわね。ましてや国や販売元等から「このままでは発売を許可できない」等と言わせたいなら、なおさらよ。


実際、すごくストレートに表現規制を目指していますね、と評さざるを得ない……。国家権力が表現に介入してくることまで明確に望んでるんだから。

ここまで強く「お前たちに自由に表現させてなるものか」という熱意が伝わってくる以上、この運動に参加するのと同時に「私も表現の自由は守られるべきだと思」っているとは到底みなせないわ。

それはベースとしている思想信条が異なるだけで、「性的・暴力的なものはけしからん」「痴漢を遊びにしたゲームなんてあってはいけない」などと主張しては表現をキャンセルして回る人たちが採用している理屈・行動と全く同じよ。

例えば、グランドセフトオート(GTA)シリーズは、ゲーム内で強盗や殺人、薬物売買といった犯罪を積極的に娯楽として楽しめる世界観から、全世界の良識的なお母さんお父さんには大不評、おそらく子供にやってほしくないゲームナンバーワンよ。

そして、実際にゲーム規制団体、銃規制団体、飲酒運転撲滅団体などから圧力を受け、日本を含む多数の国で表現規制をかけられたり、あるいはタイのように全面的に発売を禁止されている場合もあるわ。たぶん、「聞く耳もたない」から圧力をかけてでも、と同じように考えたのでしょう。

これはつまり、反論記事を書いて下さった肉まんバーガーさんが求める「発売中止」系統の努力の成功パターンよね。拠り所にしている正義は違うでしょうけれど、「表現の自由」によって私たちが実際に享受できる表現の幅を広く守りたい人からすれば、正直言って同じく「表現規制派」だわ。

あれこれ小難しい話もしたけれど、私の根本にあるのは、私にとって道徳的に嫌悪する表現、不愉快な表現、くだらない表現であっても、そこはお互いに「表現する自由」を尊重しあい、最低限守っていきたいという理念よ。

キャンセル合戦の果てにあるものは?

「道徳的強者」が嫌った表現をキャンセルして回ることを単に「民主的に認められた権利だから」というだけで、主張の中身まで賛成・肯定したら、私の主義主張である「表現の自由を守ろう」は実質的に中身のない虚無となって瓦解してしまうわ。

なぜなら、それはその時々の強者が存在を許した表現しか存在できないと言っているのと同義であって、「表現の自由」という理念に反するわ。

私がしつこく「実質的に」と私が繰り返しているのは、原因が何であれ(すなわち規制主体が国家権力でなく民間であっても)、最終的に私たちが享受できる表現の幅が大事だからよ。

私たちがちゃんと受け取れなきゃ、よしんば憲法論的・法律論的にキレイでも絵に描いた餅よ。そんなの意味ない。

よく言われるのが、「民間企業(あるいは民間の集団的な声)による決定だから規制も好きにしていい」とかだけど、色んな表現を楽しみたい私にとってはそれじゃ駄目なのよ。

いま、大きいところではパリオリンピックのオープニングセレモニー、小さいところでは「エルフ先生のトイレはどこですか?」の書店用販促ポップがキャンセルの圧力にさらされ、撤回を余儀なくされているわ。

「強者様」のご機嫌を損ねた表現は消えるしかなくなる。そういう世界がシンプルに嫌で仕方ないのよ。

それにこの勝負の最終到達点はどこ? それは特定のイデオロギーが覇権を取ったら、もう表現の自由はどこにもない世界じゃないの?

よって、私はキャンセル運動が起きるたびに反対していくでしょう。

賛成しろとは言わないけれども、「こういう考えの人もいる」とご理解くだされば幸いよ。

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