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【雑記】案外、自分を見てくれている人は居る

先月、映画「ルックバック」を観に行った。この作品は漫画の時からとても好きで、いつか一本の映画になったら観に行きたいなと思っていた作品だったため、今回無事に観に行くことができてよかった。
最近は自分のやりたいことを上手く実現できていない日々が続いていたので心配だったが、杞憂だったなあ。

そして、最近は羊文学さんの「光るとき」という楽曲を気に入っていてよく聴いている。アニメ「平家物語」のオープニングテーマ曲として使われていて、歴史ものの哀愁漂う儚い部分がよく活かされている歌詞とメロディーで、初聴してからずっと私のこころを惹きつけてやまない、そんな楽曲。

この二つに共通することを解説やコメントを読んで気付いた。どちらも「案外、自分を見てくれている人は居るんだよ」というメッセージが込められているのではないか、と思う。

「ルックバック」は、一度は漫画を描くことをやめた藤野という少女が京本という少女の影響を受けて再び漫画を描いていく物語(だいぶ端折った)。藤野は京本の死を受けて、「どうして漫画を描いていたんだっけ?」と漫画を描く目的を失ってしまう。そうして物語の最後には、自分の漫画を読む京本の笑顔を見たくて描いていたのだと気付く。まさに、京本は藤野にとって「自分を見てくれていた人」なのだと思う。人気のある無しに関わらず、自分が作ったものを見てくれていた、かけがえのない存在だったのではないだろうか。そして、そんなかけがえのない存在がきっと、今は見えていなかったとしても、側に居てくれているのだということを感じた作品だった。

「光るとき」は、もう少しわかりやすいかなと思う。「あの花が落ちるとき、その役目を知らなくても 側にいた人はきっと分かっているはずだから」という歌詞がある。私も、どれだけ好きなように生きていても、どうしてこんなことをしているんだろう、どうしてこんなこともできないんだろう、どうして、、、と思うことがある。でもきっと、そんな私だけの役割がきっとあって、それを周りは分かってくれているのかもしれない。
羊文学の塩塚モエカさんはこの楽曲に対するインタビューで「平家物語」について以下のように語っている。

『それまでは平家の人たちに対して、ただ怖くて悪い人たちみたいな、なんとなく歴史で習った印象しかなくて。誤解していたと思ったんです。一人ひとりがちゃんと人間として生きてきて、美しいものを愛していたり、子供を大切に思う気持ちがあったり、今を生きる自分たちと同じような気持ちも持っていた。ちゃんと命だったんだっていうことを感じた。』

アニメ「平家物語」ホームページより一部抜粋

「見てくれている人は居る」。平家の人は歴史的事象のみを見ていると怖い人達かもしれない。実際、アニメの序盤で(まだ一話しか観れていないけれど)ある人が平家を侮辱するような発言をしただけで平家の人に殺されるシーンがある。そんな残虐な行為がなされる一方、平家の子どもたちはのびのびと暮らしている。彼らもまた、私たちと同じように、誰かを、何かを愛し生きているということをしみじみと感じさせられた。そんな彼らを、私たちは見ている。尊い存在として、見ている。それと同じように、私たちだって、きっと誰かが見てくれている。そんなことが伝わってきた楽曲だった。

人はみな、「生きている」。
そんな当たり前のことを、私たちはよく忘れてしまう。本当に、本当に無意識に、忘れてしまう。現代に生きる私たちは、孤独を感じやすくなったし、他人を冷たく見てしまうようになった、ように思う。自分と関わる時間以外は何も経験していないかのように、何も感じていないかのように。目の前に10歳の子どもがいたならば、その子どもは10年もの歳月の中で、様々なことを経験し、考え、感じて生きてきたはずなのに、そのことを忘れてしまう。いや、私だけなのかもしれないけれど。

少し話がそれてしまったので戻す。
「案外、自分を見てくれている人は居るんだよ」というメッセージがあまりにも私には刺さってしまった。
高校生の時、私は誰の一番にもなれないんだと絶望を感じた時期があった。すぐ近くに、とっても仲が良くて、愛嬌のある友人がいた。その友人がクラスの人にかわいがられているのを見るたび、私が居ない存在かのように扱われるたび、孤独を感じた。「私のことが好きじゃないってことはもうわかったから、もう無視をするのはやめてよ」と、毎日思っていた。
でも、あの子はきっと、私を見てくれていたはずだった。だからこそ、あの子は「私はあなたが好きだから大丈夫だよ」と言ってくれていたのに。気付かなかった。「あなたはいいね、そんなに皆に好かれていて」と言ってしまった私に対して「そんなに好かれていないよ」と答えたあの子の横顔。私は見えていたはずなのに、見ないフリをした。傷付いているのは私だけだと思い込むことにした。自分がかわいがられている時、私が無視されている時、あの子だってある種孤独を感じていたかもしれない。あの頃、私は孤独だと思っていたけれど、私は自分から自分やあの子を孤独にしてしまっていたのかもしれない。順位なんて薄っぺらくてちっぽけなものに惑わされて、大事なものに向き合えていなかった。

本当に、案外、自分を見てくれている人は居る。それは私や藤野のように身近な人かもしれないし、平家の人間のように時代を越えた先の人々かもしれない。今は居ないかもしれない。それなら今後できるのかもしれない。
そんな人がきっと、どこかに居るんだろうな、と思えたら人生も悪くないのかもしれない。

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