てるととたけしのローカルコミュニケーション 1:出発、ブリコラージュ、アンドロギュノスの妄想、行為者の科学的哲学、ヒュームの問題、など。

たけし:ちょっと距離取って。そうそう、それでいいよ。

てると:言いたいことはわかるけど、どうせ俺が亜流の亜なんでしょ?

たけし:内的に通じ合った友達のことを亜流なんて言う訳ないじゃん。むしろ世界一相応しい俺の話し相手だよ。

てると:鏡というか、影みたいなもんなのかな。鏡は影見とも言うしね。というか、これ明らかにさ、YouTubeで対談動画とか作りたいけどやってくれる相手がいないから負け惜しみみたいな感じでやってる見世物なんだから、恥ずかしいことはね…。とはいえあれか、既にして恥ずかしいことしてるからいいか。

たけし:そりゃこんなことやってる時点で恥ずかしいけど、割とあれじゃない、アンドロギュノスの妄想を具現化した感じじゃない?まあ、ちょっとこの議論するか?同一性の話。

てると:まあ、基本にあるのは解離性になるんじゃないかっていう心配なんだろうけど、心配ないと思うよ。だって、今誰が考えているのか、なんていう、名前による自己同一性なんて、気にしないでしょう。結局、いつも脳内で自分で考えてる。例えばTwitterも、あくまでも「自身運営しているアカウント」であって、そこに名前があろうとアバターだろうと関係がないじゃん。いや、しかし待った、そういえば「自己は社会的仮象」だっていう議論があったよね。つまりこういうことか。わかった。そういう不安がある場合、表象としては、継起的に毎刹那自己が自己から距離をとる感覚を持って、役者を分離させてそっちに承認が向かうようにしなけりゃいい。というか、その毎瞬に距離をとる最も経験の近いもう一人の自分としての友との交わりってのが、たけしの夢だったでしょ。

たけし:そうだったね。だいたいこのてるととたけしの対話を思い立ったのって、明らかに俺の願望交じりなんだけど。そういえばそれもあるけど、対話篇でブリコラージュを実践しようって話だったじゃん。

てると:俺とたけしは、どう言い繕っても同じ人だからね、それは覚えてるよ。でも、うまくいくか疑問だよねってっていう疑念があるじゃん。

たけし:やってみるんだよ。肝心なのは、対話を連想的に繋げていくことだろうね。そこではもはやアナロジー勝負ではあっても分析ではない。ほら、民俗学者の折口信夫が類化性能と別化性能の話してるじゃん?

てると:読者向けにも解説入れた方がいいね。

たけし:そうだね。類化性能というのは、古代人が神話の思考で使用したアナロジー的思考法で、別化性能というのは、近代人が科学的に使用する分析的思考法のことのようです。直接原典に当たったことがないので不確かなことになりますが、私たちの議論はずっとその不確かさの中で展開されるので、断っておきますが、何卒よろしくお願いします。

てると:わかるよ。で、類化性能の方が野性の思考で、別化性能の方が栽培の、つまり文明の思考だって言いたいんでしょ?あのレヴィ=ストロースの。

たけし:そう。その事例でブリコラージュの議論が出てくるらしいから、そういう意味で提示した。インボルブする対話にしたいね。つまりさ、解説多めの話し方じゃなくて、この際限なきローカリズムに巻き込んでいくような世界を形成したいね。

てると:いい話風に言ってるけど、痛すぎるよな。でもまあ確かに東方系の人たちがやってるやつってこれだろうなと思ったりもする。あれも中の人は一人で回してるからね。気持ちいいんだろうね、自足してるんだろうね。

たけし:本当にそう思うよ。話し戻すと、ブリコラージュのローカリズムでインボルブするって、この前記事で出した「コピペ的MAD的陰謀論的」そのまんまじゃん。経験動いてないなあと思うよ。だけど、実際俺がやりたいのってそれだしね。論じるとすれば、一番いい事例はMAD界隈で、あれは確かに連結的でありながらも特定の世界観にインボルブしてるよね。当然陰謀論というのもそうだし、コピペブログなんかもやってたことあるからわかるけどね。

てると:話してて気づいたけど、やっぱり無節操にはなりえないね、話ってのは。いつもの友達との会話でも必ず強固にストーリー性が出る。さっきのブリコラージュの話もだけど、産物には明らかにストーリー的な全体性が含意されるじゃない。あーやだやだ。

たけし:やだね。

てると:やだよ。日頃友達ともこんなふうに甘美でくだらない会話をしてるんじゃないかって思ってね。

たけし:でもさ、その意味での友達は、ヤマアラシのジレンマじゃないけど、適度に距離があるから、つまり経験が近くも遠くもないからこそその距離において有益さが出現するんじゃないの?だからさ、アリストテレスの友愛論は一面的だったけど、師匠のプラトンのシュンポシオン直系ともとれるんだよね。来た来た来た、話しててたった今、対話篇書いたプラトンの経験が取れたのかなっていう。そこで、俺が言う「アンドロギュノスの妄想」ってやつは「宇宙霊魂」と結びつけて考えてるけど、だからさ、プラトンとアリストテレスを読んでロマン主義哲学をやったシェリングっていうのは、まさに宇宙霊魂論とか自我や反省の議論をやってるけど、そう考えるとまさにここにおいて初期ロマン派の「脳内ディアレクティケー」としての無限の反省の方法と繋がるんじゃないかと思って。

てると:面白いね。でもあまりにもプラトンと初期ロマン派に対して無知すぎるよね、俺たち。ほんとアナロジーだけでやってるし、アナロジーだけでポイエーシスしてる感じ。もう思い付き芸人の域だよね。

たけし:だけどもうそれでやっていくしかないんだって。もちろん今後はたんに言葉を覚え込むんじゃなくて各々のこれと決めた本を細かく読んでいくこともするけどね。

てると:でもこれ心地いいね。非常に危ないというか、言ってみれば存在とか神秘主義で自足してしまった人みたいになりそうじゃないか。

たけし:それは思う。何がいいって、リア友だと否定したいときでも一応の同意をすることがあるけど、この関係性でだったら思いのまま肯定も否定もできるからね。だけど俺のことだしいつかその日が来たら区切りは付けられるでしょうと思ってるよ。ところでさっきの話もっと展開しようよ。

てると:思うに、カントが同じこと論じてるけど、つまり、理性の宿命として理性は答えられもしないのにどこまでもどこまでも高く登っていくってのがあるけど、あれこそがアポリアやエロース以来無限の二重化まで繋がってくるところの、「哲学病」とか「Xの探求」とか「人間はどこだ」とか揶揄されるやつだよね。困ったね。

たけし:ずっとそこで困ってるんだよ。大学の例の教授はデカルトの回で「方法的懐疑は人生で一回きりしかやっちゃいけない」って言ってるけど、多分、というかどう見たって本人哲学病治せてないじゃん。だからそういう体質の人っていうのはもう無理なんだと思う。だいたいシェリングの言う絶対者とか根源知って何だよ、何のことなんだよと思わないか。俺は教授がいい治療者だとは到底思えないんだ。

てると:いつも話してるように、フランス革命のときに神に代わって理性崇拝がやられたじゃん。あれが凄く象徴的な事件で、それを人類はどうやら解決できていなくて、だからその点では教授も正しく、ロマン主義を終わらせると言って『精神現象学』を出したヘーゲルは「詐欺師」だって言うんだよね。ゲーテがあらゆるロマン主義的なるものを病的だと言ったのに対して「はい健全でーす」っていう話ね。

たけし:話を変えよう。この感じ、まさに不健全な円環に入ってるから。

てると:そうしよう。

たけし:一番仲のいい友達が朱子学やってるから、その話にしよう。朱子学には明らかに本来性に帰るような発想があるんだけど、さっきの話と少しだけ繋げると、「致る」という発想があるからね。だけどドイツ的な自然哲学では、教授が「宇宙霊魂」は「宇宙機械」とも同じだと言ってるように、どうもサイエンステクノロジーつまり科学技術と相性がいいんだよね。科学的方法によって理を、つまり秩序を見出すような発想が、少なくとも科学の中でも近代科学にはあるみたいだけど、朱子学だと結局儒教の枠になっちゃって、聖賢の古典を読めということになるらしい。知に致るっていうのは明らかに哲学病の発想なんだけどね、未来志向ではなく過去志向の人生と社会の哲学の仕組みなんだよね。

てると:そうだね。そういえば教授が個人論文で「活動態」=「気」って書いてたけど、そこからの類推で言えば、少なくとも教授の独創交じりのオートポイエーシスっていわば気の科学的哲学と言えなくはないかな。

たけし:自己組織化の系譜からしてそう思うんだけど、そうすると秩序ということをどう捉えるかが肝心な話になるんだよ。まどマギに秩序と欲望の話があるけど、事は大ごとであって、容易に回収できる議論ではない気がしてる。教授、過度に「エントロピー」という言葉にこだわるとこあるじゃん。

てると:だから、教授は観望者の哲学ではなくて行為者の哲学の人だから、聖俗革命なんていう変な話にはならなくてね、だから、言われていたように、流れの中に巻き込まれながら動いていくというのは決定的に意味があると思っていて、言ってしまえば方丈記的感性というか、ゆく河の流れとよどみの行為論ではあるはずなんだよ。そもそもオートポイエーシスはルーマンの時点で現象学と接続してて、やっぱこれやっていくんなら現象学やんなきゃいけないんだよ。

たけし:友達に「際限なく拡大したローカリズム」がたけしだって言われたじゃん。多分そういうことだと今ふと思って。教授がショーペンハウアー扱った回で、まあショーペンハウアーは「個体化の原理」を説いたわけだけど、その回にまさに「ローカリズムへのこだわり」と「普遍というローカリズム」ということを教授は言ったわけじゃん。ここはユニヴァーサリズムとホーリズムを細かく見分ける感度が大事だと思うんだよね。それとオーガニゼーション。惑星はあんなに個性的なんだよ。宇宙の圧倒的多様性を前にしたら、もう、立ちすくむしかないよね。

てると:普遍の議論では、神、自由、不死性の議論はカントがしてるけど、そういえばあの哲学病の一つの処方箋ってアンチノミーっていう議論だったね。

たけし:そうだった。『ホモ・デウス』買ったけどまだ読み通せてないや。どうも未来ということを考えると具合が悪くてね。他の教授に未来の可能性だか何だかを書こうとしてた人がいるんだけど、気持ちはわかるけどそりゃうまくいかないよなと思ってしまう。

てると:だろうね。カントはヒュームを読んでたから、カント自身が言ってるあの「信に場を得させるために知の場所を譲らなければならなかった」ってやつは、現実性の議論としてはむしろ知の際限なき制限になることはわかってたんだろうけど、実際にフェノメノンと言ってそういう仕事はしてるし、だけど、その結果文化相対主義から今やられてる実在論まで繋がってるからね。メイヤスーもヒュームの問題と言って取り扱ってるし。だから取り立てて「構成主義的経験論」なんて言葉を造語する必要もなかったんであって、通常ヒュームの議論はまだ有効なんだろうなとおぼろげに思ってる。

たけし:あ…この仕事もう千葉雅也がやってる。

てると:そうだね。

たけし:現実には、世界を解釈することではなくて、現実に、実際に数理的に、そうでなくても世界を変革することが大事だってのはマルクスの主張だけど、それ教授が息入れて言ってたよね。あれには半分賛同してて、だから、学問はたんなる生の哲学じゃダメなんだよ。でも、だったら哲学ごときに何ができるんだ?

てると:結局分業しかないのかなあ。本来哲学が分業的人間であってはいけないと思うんだけど、そうしかならないのかなあ。

たけし:不健全でも諦めたくないんだよね。言ってみれば「何かせん」という盲目的な願望。でも、大戦や冷戦によって、機械も宇宙開発も進歩してきたんだよな。闘争なんだ。ヘラクレイトス的になるけど。

てると:そもそも闘争と言えば卑近なこととして、たけしが高校を中退したのも「時空的束縛が続くのが嫌」って理由だったけど、ベルクソンとかから言われてるような「絶対時間・絶対空間の暴力性」って、そもそもその暴力性は誰が押し付けて来るんだと思う?

たけし:システム

てると:変態

たけし:変態

たけし&てると:変態!変態!メタモルフォーゼ!フォー!!

たけし&てると:www

てると:あー、くっだらねえ笑


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