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見田宗介、真木悠介という『センス・オブ・ワンダー』からの高原の見晴らし

 
「いのちのお祝い会」で、僕は『夢 with you』という久保田利伸の曲を歌った。

30年前になる学生時代、1993年に流行ったドラマの主題歌にもなった曲です。
 
愛と夢に満ちた、素晴らしい詩、勇気のみなぎるメロディー
いつまでも色褪せることがない、僕にとっては、永遠の名曲です。
 

曲の中に、dream up  dream up  get some power という歌詞がある。
 
実際の曲では、この箇所はパワフルなコーラスで歌われている。
この曲は大好きなのに、とても難しくて歌えない。
 
だから、僕の中では、この箇所は、苦手なものとなってしまって、

本番の時には、この箇所を、春菜さん(友人のアーティスト)ならどうにか歌ってくれるだろうと、無茶振りした。

そして実際に、春菜さんが歌ってくれた。

初めて本番で聞いて、その透き通るような歌声と美しいメロディーにびっくりしてしまった。そして、この箇所がとても好きになった。
 
そして、「いのちのお祝い会」の準備で忙しくしている頃、

数学者の森田真生さんが、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』という名著について書いた本が出版された。

本を読む余裕もないのに、直感が働いて、この本を読み始めていた。
 
その中に、「dream up」:という言葉について触れている箇所を見つけて、ハッとなった。
 
dream up とは、ハチと花が相互を想い、まるで夢見合うようにしながら、互いの存在を生み出しあっていく関係のことだ。
 
春菜さんの美しい声を聴いた後だっただけに、この詩的な表現を見つけて、「夢 with you」の曲の中にある、dream upの箇所がますます好きになった。
 

dream up  dream up   get some power 
 
お互いの存在を生かせるように、お互いに夢見合うこと。
そのために、力を手に入れて、勇気をもって困難に立ち向かっていくこと。
 
 
森田さんの美しい文章にうっとりしながら、
彼が京都の自然豊かな場所で、山と川と虫と子供たちと生きている「センス・オブ・ワンダー」の柔らかな世界に引き込まれ、

この本の最後の結の章を読んだ。
 
森田真生さんが『センス・オブ・ワンダー』を通して、伝えたい思いが書かれてある。


カーソンの別荘を訪れた夏のある満月の夜、ロジャーはカーソンの膝の上に乗って、月と、海と、大きな夜空を見つめたあとに、「きてよかったね」とささやく。

『センス・オブ・ワンダー』のなかで、もっとも印象的な場面のひとつだ。
 
「きてよかったね」
 
すべての子どもたちが、この星に生まれたすべての生命が、
この星に生まれた経験を、
ここに「きてよかった」と心からそう思えたら、
どれだけ素晴らしいだろうか。
 


そして、ここから、歌が転調するように、

見田宗介という人の『現代社会の理論』の一節の引用が始まる。
 

見田宗介の著書『現代社会の理論』のなかで、印象的な議論を展開している。
 
ここで見田はまず、そもそも「必要」ということが一般に、最も基礎的な価値として疑われないのは、生きることが、生きていないことよりもよいことだと信じられているからである。
 だが、それはどうしてなのだろうか。どうして生きていることは、生きていないことよりもよいことなのか。これに対して見田は、突き詰めればそれは、「生きているということが、どんな生でも、最も単純な歓びの源泉」だからなのだという。
 
続けて、次のように書く。
 
「語られず、意識されることさえなくても、ただ友達といっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいること、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓び」がある。
だが逆に、「このような直接的な歓喜がないなら、生きることが死ぬことよりもよいという根拠はなくなる。」
 
結局、「歓喜」と生きることへの「欲望」は、「必要よりも、本原的なもの」なのである。
 

僕は、上に引用された箇所に、並々ならぬ興奮を覚えたのだった。

なぜなら、『いのちのお祝い会』をなぜ僕がやりたいのか。

その答えが書いてあったからだ!!!

森田氏が、わざわざ、『センス・オブ・ワンダー』の結びに、引用している、見田宗介という人は何者だろうか。
 
ここから、見田宗介に対する、僕の中の『センス・オブ・ワンダー』が始まった。
 
そして、見田宗介の別名である真木悠介の『気流の鳴る音 交響するコミューン』に辿り着いた。 
 
初版が、1977年(47年前)である、この本を読みきった後、
僕は、青空が広がる美しい草原の見晴らし台に立ったような気持ちになっていた。
 
本の中に、「翼をもつこと、根をもつこと」という章がある。

真木悠介の思想の根幹を為す「翼をもつこと、根をもつこと」の内容については、いつか深く論考してみたい。
 
2022年4月1日に亡くなった見田宗介(真木悠介)が、この世界に生きているわたしたち一人ひとりに、ずっと問いかけてくれていた言葉である。


 
いま、これを書きながら、そうかと思いついた。
 

dream up  dream up     get some power 
翼をもつこと       根をもつこと


久保田利伸の「夢 with you」にある
dream up  dream up     get some power 

見田宗介・真木悠介のわたしたちへの問いかけ
翼をもつこと  根をもつこと

この言葉を、この問いを、ずっと心に置いて、この世界の中で、無限に開かれていてる可能性を、あなたとわたしの関係で夢見合って、開いていきたい。
 


以下に、森田真生氏が『センス・オブ・ワンダー』の中で引用した、見田宗助の『現代社会の理論』についての箇所、その原文を掲載しておきます。

無限空間の再定位  離陸と着陸

前節のおわりのところで、原義としての<消費>を豊かなものとしてゆくということに基軸をおいた「方法としての消費社会」という見とおしをのべた。

この見とおしに対しては、正反対の二つの側からの批判を考えておくことができる。

一方は、「消費社会」の現在あるような形態を基本的に擁護する立場からのものである。

この自由で魅惑的で豊富な先進諸国の「消費社会」が実現し、繁栄を持続しうるのは、消費需要という形で、システムが自分に必要な市場を自分で創出する仕方を確立し、自己準拠のシステムとして自立したからであるが、この消費需要は、もちろん市場での商品消費需要であるから、そのような繁栄効果をもつものであって、この核心のところが<消費>に、つまり商品化される必要のないものとしての消費の原義におきかえられてしまったのでは、肝心の繁栄効果を支えるものとしての消費市場の無限空間は失われてしまうのではないか、というものである。

他方は反対に、「消費社会」一般の廃絶を要求する立場からのものである。これには、市場システム自体の廃絶を要求する立場からのものと、市場システムは肯定するが、古典的な産業主義的な市場システムこそが、「健全な」
市場システムであって、「消費社会」はその堕落した。あるいは逸脱した形態であるという立場からのものとがある。

どちらにしても「消費社会」を、たとえ方法としてにせよ容認してしまうのならば、その定義上、商品の大量消費の社会なのだから、それは必然に大量の資源を損耗し、増大する廃棄物によって環境を汚染し、他社会を収奪し
つづけるほかはないのではないか、とする批判である。

以下の4つの節の中では、この二つの方向からの批判に、順次に答えてゆくことにしよう。

第一の方向からの批判がいうように、現代の「消費社会」の成功は、情報化を媒介として欲望を自由に創出することをとおして、市場システムが自由な展開を持続するための、「需要の無限空間」ともいうべきものを見出したということにある。それは欲望の文化的恣意ともいうべきものの、「必要の大地」からの離陸を前提としていた。

「方法としての消費社会」という構想は、この離陸した需要の運動空間を、もういちど経済の外部のものに、(人間の生きることの歓び)という原義的なものの方に、着地させるというものである。このことによって需要の空間の無限性は失われるだろうか?

問題の積極的な核心は、つまり、市場のシステムの永続する活力を保証する前提は、離陸ということ自体にはなく、需要の空間の無限性ということにこそあったはずである。ごく単純な比喩としてあらかじめ言っておくなら、一つの空間は、その下限が着地するものであっても、上限が開かれたものである限り、無限であることを失うことはない。

<消費>の原義への着地ということは、「必要」の有限空間に需要と供給を限定としてしまおうとするいくつかの社会理論とは、発想を
異にしている。「方法としての市場経済」を同様に説く理論の多くは、このような必要主義的な発想に立っている。

(人間の生きることの歓び)という原義的なものは、「必要」にさえも先立つものでありながら、どのような「必要」の限度をもこえて、限りなく自由な形態をとることのできるものである。

「必要」というコンセプトはふつう、最も原的なものであるように考えられている。「必要」として一般に社会理論で想定されているものは、第一に典型的には食料、それから、衣料と住居、衛生的な上下水道、基礎的な医薬品、普通教育のための施設や学用品、等々である。「ゆたかな社会」ではこれらに加えて、電話やテレビジョンなども「必要」の項目となる。三章でみたようにこの社会では、このようなものがなければ、「正常な」社会生活に参加できない構造になっているからである。 このような事実は正しい。

必要は、もちろん何らかのために必要なものである。これらの基礎的な必要は、何のための必要だろうか。生きるための必要である。それから、快適に、健康に、安心して、楽しく、歓びをもって、生きるための必要である。

中国の古い言い伝えでは、昔々理想的な社会があって、そこでは人びとは充分に生きて、生きることに足りて死んでいったという。何年か前にあるイタリア人が、生きることの歓びをすべて味わいつくしたといって、幸福に自死したという報道を聞いたことがある。

生きることが一切の価値の基礎として疑われることがないのは、つまり「必要」ということが、原的な第一義として設定されて疑われることがないのは、一般的に生きるということが、どんな生でも、最も単純な歓びの源泉であるからである。

語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちと一緒に笑うこと、好きな異性といっしょにいること、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受しているからである。
このような直接的な歓喜がないなら、生きることが死ぬことよりもよいという根拠はなくなる。

どんな不幸な人間も、どんな幸福を味わいつくした人間も、なお一般には生きることへの欲望を失うことがないのは、
生きていることの基底倍音のごとき歓びの生地を失っていないからである。
あるいはその期待を失っていないからである。
歓喜と欲望は、必要によりも、本原的なものである。

必要は功利のカテゴリーである。つまり手段のカテゴリーである。効用はどんな効用も、この効用の究極使える欲望がないなら意味を失う。欲望と歓喜を感受する力がないなら意味を失う。このように歓喜と欲望は、「必要」にさえも先立つものでありながら、なお「上限」は開かれていて、どんな制約の向こうがわにでも、新しい形を見出してゆくことができる。

「必要」の地平へではなく、<生きることの歓び>という地平への着地の仕方は、一つの社会のシステムのテレオノミー(目的性)を、いっそう原的な地平に着地する仕方だけれども、それはこの社会の活力の運動する空間の開放性を、有限なものの内部に閉ざすことはない。

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