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コミットメントとは「誓いを立てる」

仕事や研究のプレッシャーからなのか、バイオリズムからなのか、はたまた、記念日反応的なものか、昨日ひどく沈んでいた。

でも、あることを思い出すと、魂に滋養が注がれるという感覚になることがある。もちろん、それで一気に回復!とはいかなくて、力ないままなのやけれど、孤独感やしんどさが強いときは、それで耐えしのいでいる。

なにかというと「コミットメント」ということ。

前のブログでも少し書いたけれど、わたしはある人に、人生をかけてもらったなと思う経験があって、それはコミットメントというにふさわしい経験だった。そして、この言葉を日本語にどうしたら訳せるかずっと考えていた。深く関わること?積極的関与?うーん。しっくり来ないとずっと思っていた。先日、たまたま何かで「コミットメントとは”誓いを立てること”」と書いてあるものを読んだ。すっと心に入ってきた。

母の亡くなる約半年前、父が出ていったその日に、わたしは、死にそうになった。もう生きていけないと思うほど、家族がこわれてしまった。その時に、わたしを生かしたのがその人のコミットメントだった。

ひとりの人の人生に関わる という誓いを立てることはそう簡単にできることではない。「結婚」というものがそれにあたるように思えるかもしれないが、結婚でさえ、そうあれないことがある。時として、その誓いがとても自分本位だったりするから。

他者の抱える苦しみや、痛みまるごと、一緒に生きていく、という誓いの立て方は、いのちの根っこから支えることにつながるような関わりで、この上なく尊い。なかなか、それは、実現がすることが難しい。慈悲というのか、compassionというのか…。

Compassion というのは、分解すれば passion(受難)をcom(共に)するということになる。ダライ・ラマ法王猊下をお招きした際の場を”Power of Compassion”と題したのは、何よりも、法王様ご自身がその生き方をされているから。

人の痛み、苦しみをないことにしない。

我がことのように感じ、そして、一緒に生きていく。

その姿、あり方にどれだけの人が救われてきたか。そして、法王様自身が誰よりも、痛み、苦しみを生きているからこそ、そのあり方にやさしさと力を感じるのやろうと思う。

わたしは、家族をもつのか、もたぬのか、この先のことはわからないけれど、少しでも、いただいたものを送っていけるよう、努めたい。生かされた分、共に生きる力に。

心の中に灯された法灯を継ぐこと。

Compassionの誓いを立てて、生きる。

☆ちなみにこのブログを読むなら、このBGMかな。主人公の母親の愛がとても深くて思い出される。

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