第42回 死の臨床研究会年次大会@新潟・朱鷺メッセ

朱鷺メッセという会場に3000人以上の参加者が全国から集いました。

「日本人にとって幸せな死とは」というテーマのシンポジウムに登壇をいたしました。

1)幸せな死って?

  そもそもあるのか?「不幸な死」というものもある?「自殺」は不幸な死なのか?こうした問いを自分の中に巡らせたとき、私は母の死をそうは思っていないと気づき。でも「幸せな死」だったかといえばそうではないとは思う。一方で、15年かけて気がついたのは、保険金を遺して亡くなったのは、子どもたちを思ってのことで、母の死は「愛」だったかもしれないとも思う。でも「幸せ」とは違う。

グリーフが人の指紋ほどに違うように、死もひとりひとりにとって違うもの。どれか一つ絶対的な「幸せな死」は存在はしない。

また、「死」自体を「ご不幸があって…」と表現するけれどどうなんだろうか。死に色はない。人が色をつけたくなってしまう。

2)誰にとっての?

死にゆく人にとってか?遺された人にとってか?

たとえば、遺された人にとってだとすれば、それはやはり、グリーフサポートが当たり前にある社会なんだろうと思う。そこで、英国のTierモデル(支援の段階モデル)、情報提供の重要性、確実に出会う職種の人たちがいかに関わるのかに重きをおいて話をした。

3)日本人固有の…というのはあるのか?

日本人は「死者が生まれる」という表現があるほどに、死者とのコミュニケーションを大事にしてきた。それは先祖供養、お墓、仏壇を介した営みなどを通じて行われてきたグリーフワークでもある。亡き人をなきことにしない。死を無かったことにしない。それは日本人が培ってきた、死を大切にする精神性ではないか。


このテーマ自体がとてもむずかしいので、準備している間もずっと悩んでいた。発表した後も、悩み続けている。絶対的な「幸せな死」はないし、それは追い求めるものでもない。願うことや、最善を尽くすことはできるけれど、求めれば求めるほど苦しくなることもあると知っていることが大事ではなかろうか。

一緒に登壇した郷堀ヨゼフ先生と、善光寺の若麻績敏隆ご住職、そして、臨床仏教師であり、山形のお寺の伊藤竜信さんです!久々の再会に嬉しく。

初日も2日目も、曹洞宗の米国人のお坊さん2人が立ち上げた ニューヨーク禅センターのワークショップに参加し、あまりに素晴らしかったので、それを次回のブログで書きたいと思う。

初雪の新潟より

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