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#111アート を終えて。【序章】

ようやく終わった...。というか、まだ終わっていない感覚が身に纏わりつく..。ふう.......。

しかし眠い。

1/11前後から、体がバキバキで重く、常に倦怠感と疲労と困憊と休めないもどかしさととにかく眠い。腰が痛い。扁平足でたい焼きみたいな有吾くんの足でまた乗ってもらうか、ぷさちゃんに本気揉みしてもらうか..だな。....やれやれ (しかし幸せだ。)

そんなわけで#111アート は盛況に終わり、盛況と次なるステップへと躍進をしていく所存でございます。「湘南とアート」というテーマの下、様々なコンテンツを載せて。そんなことになるかな。

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さて、今回は花房太一率いるアートオーガニゼーションCANCER(花房太一/有賀慎吾/伊藤宣明/村山悟郎/邱和宏/須賀悠介/斉藤有吾)の撮影も担当した、写真家の阿部章仁さんがご来場くださり、素晴らしい瞬間をたくさん切り取って下さいました。阿部さん自身が感受している。だから神がかっている。私もみんなも、阿部さんの写真がめちゃくちゃ好きだ。めちゃくちゃ良い写真しかない。すごい。授業中も良いし、外の休憩中の写真、特に好きだな。

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一同、心より感激しております。ここでは阿部さんの写真と共に#111アートを追っていきたいとおもいます。

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では冒頭。[有賀慎吾 パフォーマンス 「Blind Tactile Sense 20200111」と共に#111アート の登壇者トーク[花房太一]からスタートすることを伝え、洗面所からパフォーマンスの着替えを終えた有賀慎吾が「もうやって良い?」と何度も登場しました。だけど、「装着型乳房」があまりに下(ここでは位置)過ぎる、とのご指摘を受け、男性の背中に手を回し「装着型乳房」の位置を調整する私です。ビキニタイプで背中に紐で結ぶタイプだったので、ズレ易かったのですね。はあ面倒臭い。

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当日子どもたちも6人ほどご来場。この写真では、てるくん、つーちゃんだね。どうだったかな。感想聞かせてね。愛してるよ。登壇者側では花房太一くん武内竜一さんがトークを始めました。私、司会。

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パフォーマンスには介助者というか、まあ、お世話をする係が必須なので、前日に娘の小学校の音楽朝会で会った、娘が赤ちゃんの頃から馴染みの所謂ママ友・ようこちゃん(心の友)(多分竜さんと同い年)があるしん(有賀慎吾)のお世話係を快諾して頂けました。本当に有難い。ようこちゃんにはレジュメもぱちんぱちんとプリンターでキュインキュインとコピー用紙が鬼足りなくなって近くのダイソーまで一っ走り、ボタン押すだけタイプのこんなトークイベントにはもってこいの赤ワインも差し入れてくれて、10:00入りしてくれるという感謝でしかないお方です...。この場を借りさせてもらう。本当にありがとう。大好き。(あ、お金返すね)

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そうそう。レジュメです。そのレジュメがこちら。プリントアウトしてkotteの宣伝に使って良いですよ。

タイトルに「父母のやりとり」ってありますね。コレ何でしょうね。instaで今回のしつこい告知を見かけた人じゃないと、何のことだかわかりませんよね。しかもこのイベント、〈hanapusa TV(YouTube,花房太一くんの番組)〉でロング公開しているのですが、3時間観続けても「父母のやりとり」について言及されない。

当記事は【序章】ということで必要な記録は先に載せておきましょう。こちら。基本動画を観てください。それで、私はここnoteで話したいことを話しますね。第何章くらいになるかなあ。想像つかないなあ。すいません。

まあ、父母のやりとりはこんなコンテンツ盛りだくさんイベントだったので13:00-16:00枠なんかで話せるハズがないよね。全然話せない。ちょろっと話しておくと、これは美術教育におけるところの、人間という一つの教養段階というのがあって、それが「父母」という諸・家庭に集約されていて、人類史という美術と共に形成されていった一、文化があって、それこそが今回の美術教養〈ここでは新しい概念の提唱・リリベラリズム(再教養主義)by後藤てるみ〉そのものである、という考え方から「父母のやりとり」は発端しているということです。よく分からないですかね??これ、説明しなくても動画で【質疑応答】時にあるしんに「あるしんさんに質問です。何で縄文が好きなんですか?😊」と質問してくれたkotte受講生の〈くがっち〉は、「先生、それは分かるよ。だってすごく大事な事だもん」と理解してくれました。悪しからず。(©️「父母のやりとり」著者:武内竜一,花房太一,さーくん,有賀慎吾,後藤てるみ/2019~2020)

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さて、【序章】で話しておきたいことの大枠として、有賀慎吾「Blind Tactile Sense 20200111」はすごく良い作品だ。ということだ。彼の作品で、心はいつも泣いていた。私は元来、「芸術に対しての切実性」というものをすごく大事にしてきて、それは=(イコール)で「泣ける絵」というものに比例してきた。ムンクも然り。小説でいうと野島伸司作品がそれに中り、映画でいうと「Shine」がそれに中る。どうしても泣いてしまう。これを書いていて尚、益々、感極まってくるのが自分でも解る。ひとつひとつ汲み取りながら、すすり泣きながら書いている。芸術は本来的に純粋なのだ。「悲しみ」「怒り」「裏切り」「極度の落胆や疎外感」「極度の後悔」「極度の自傷感」に射す、一筋の光なのだ。芸術は。ムンクは「嫉妬や裏切り、死への恐怖や悲しみ」、野島伸司はこれら人間社会に浮遊する負の心理的状態に射す一筋の光を「愛」と例えた。「愛」は野島にとって「芸術」のことである。野島は「世紀末の詩(うた)」という作品で、ジョン・レノンの「Love」と共に章の最後に毎回「ハローベイビー、愛とは〇〇のようだね」と短い「詩」を残して次の章へと移る。最終章に至るまで「愛とは何か」を散々追いかけ模索し、ついに最終章でこう結論付けた。「愛のかたちはぷくーっと一緒に膨らます、交代交代しながら膨らます、“風船”だ」と。おいおい泣いた。「Shine」は一番好きな映画なのだが、ピアニストの主人公の精神が崩壊した最後には、ピアノが抱きしめてくれるということだ。狂おしいほどに、尊く、彼を抱きしめる。私はそんな芸術を愛おしく感じ、土砂降りの電話ボックスからボロボロになった彼が電話し、レストランでピアノを狂おしいほどに弾いた姿を見せ、それによってまた歓びが再来し、よく晴れた空の下、パンツを穿き忘れて歓びのトランポリンをする姿で、またおいおいと泣いた。有賀慎吾の(上記の)この写真を私が2枚選んだのには理由がある。阿部さんもきっと解っていたんじゃないかな。だから撮れたんだと思う。だから偉大な写真家だ。この答えは、「恍惚としたように見える」または「芸術を(今回唯一の臭覚や,意識の中へ潜り込み)探そうそしてる姿に見える」からだ。目隠ししているので恍惚としているかは表情も分からないので正しくはないかもしれない。盲目の触覚というタイトル通り、意識を触覚と例え、芸術の所在を捜し出すという姿はこれに合致する。私はあるしんの作品に対する姿勢、というかある種の創作行為そのものへの「触れ方」については、よく理解ができる。それは、私も「そう」だからだ。それに、社会と分断された被り物の内側で、きっと恍惚としていると思う。彼の意識の上空には、彼の芸術的所作が存在していて、それを辛うじて掴もうとしている仕草だ。どこかにあるよ、芸術は。私(己)の意識のなかで、見えたり隠れたり、すぐそばで灯台下暗しのように実はちょこんと座っていたり、遠ーーくから、突然ピョコン!と姿を現したりするから、座標を定めるのは一際難しくもあり、座標がもう少しで特定され分かりそうになることがすごくエキサイティングで、それが科学や物理なんだと思う。そういうことなんじゃないかな、と思う。この作品、及び有賀慎吾の良さは。



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序章最後に、当授業動画の〈1/3〉のちょうど1:00:10過ぎたあたりに花房くんが、ここkotteへ最高の褒め言葉をプレゼントしてくれました。まあ、花房くんと出会ってからたったこの2ヶ月間で、貰ったものはこれだけじゃないな。けっこう泣けてくる話で、10年間私は一人で、芸術への論理的な理念という「武器」を装備するためたった一人で孤独だったんだ。だから、あるしんの感動的なパフォーマンスを観ているフリで、本当は泣いてたんだ。私は心の中で、最大級の感謝をした。ありがとう太一くん。

美術の孤独な10年間については、次回【第1章】にて。これがkotteの原点だから。すぐアップすると思うよ。すごく丁重に、切実に、みなさま。kotteのことをこれから宜しくお願いいたします。ご挨拶も兼ねて。(後藤てるみ,2020.1.15 まだ小さな,だけどお姉さんなつーちゃんが現代美術研究所へ授業にくる前に,茅ヶ崎市小和田現代美術研究所にて)

[写真:阿部章仁(Akihito Abe) www.instagram.com/abephoto ]