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『日本橋魚市塲沿革紀要』を原典で読む Part 7: 江戸時代に活鯛流通システムを創った男、大和屋助五郎
前のパートまでで、日本橋魚市場の誕生と当時市場がどのような姿をしていたのかについて見てきました。それに続く箇所で、新しい登場人物「大和屋助五郎」が出てきます。
彼は日本橋魚市場における活鯛(いうまでもなく、幕府、そして江戸の食における最も重要な魚の一つ)の納人として特異な存在を誇ることになります。多くの史書で森孫右衛門と並び称される歴史的地位を与えられています。そんな彼について紹介するのが以降のパートです。
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一 元和二丙辰年和州櫻井町大和屋助五郎此地ニ來リ本小田原町ニ居住シ魚商人トナリ本小田原町本船町ニ於テ更ニ市場ヲ開ク事ヲ許サレ寛永年間ニ至リ右助五郎ハ駿州地方ノ各浦ヲ巡リ漁人ト契約ヲ結ヒ若干ノ仕入金ヲ貸附ケ又浦々ニ活鯛場(水中ニ簀ヲ張リ鯛ヲ囲ヒ置ク)ヲ設ケ而シテ廣ク該地方ノ魚類ヲ引受ケ売捌シカ(同時助五郎ハ特ニ幕府ヘ活鯛ヲ納ムル事ヲ務ムト)
元和二年(西暦で1616年。ちなみにこの年に家康が没しています)に和州桜井町(現 奈良県桜井市)にいた大和屋助五郎は江戸にきて本小田原町に住み、魚商人となった。本小田原町本船町において市場を開くことを許された。寛永年間(1624年〜1644年)には助五郎は駿州(現在の静岡県)の浦々をめぐって、漁師と契約を結んで若干のお金を貸付けて活鯛場を作った。そして各地の魚類を引き受けて売り捌いていった。同時に、助五郎は幕府に活鯛を納める仕事を務めた。
元々今でいう奈良県の地にいた大和屋助五郎(「魚河岸百年」によると彼は干鰯を扱う商人だったようです)は、江戸まで出てきて魚屋になります。1615年に起きた大阪夏の陣によって豊臣氏が滅亡しています。これを受けて、将来の雄飛を目指して江戸へ向かったのでしょう。新参者が新しく商売を始める、まさに「殴り込み」のような形で参入していきました。
彼が行ったビジネスは活鯛流通のシステムだったようです。静岡の浦々を回って活鯛場(文字どおり獲った鯛を活かして保管するもの)を作り、そこから得られる鯛(+他の各地から得られた魚)を売り捌くというものでした。活鯛場を作るのにも無一文ではできないので、若干のお金を貸し付けて実現していたようです。「資本」の力を感じますね。
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そんなビジネスを成功させた助五郎は、幕府に活鯛を納めるという大変名誉ある仕事を仰せつかることになります。冷蔵庫もトラックもないこの時代に、どうやって活きた状態で鯛を江戸まで運んだかという技術的な部分についても書きたいのですが、ページが長くなって仕方ないのでこのへんで。
にしても、大和屋助五郎、江戸時代に奈良から日本橋までやってきて活鯛流通のシステムを創って幕府の御用商人にまでなってしまうとは、何者なんでしょうねこのバイタリティは…。
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