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『日本橋魚市塲沿革紀要』を原典で読む Part 4: 魚市場の創設

前回からの続きです。日本橋魚市場が誕生した経緯の部分に移ります。

而シテ日々其獲ル所ノ魚類ハ幕府ノ膳所ニ供シ[其時専ラ白魚ヲ納ムト云フ]其殘餘ヲ市街ニ販賣セシガ追年同業ヲ營ナム者增加シ随テ賣却ノ途モ廣盛セシカハ慶長ノ頃ニイタリ森九右衛門[孫右衛門ノ長男ナリ]等其幕府ニ納セシ殘餘ノ魚類ヲ引受テ之を販賣スルニ便益ヲ謀リテ賣場ヲ日本橋本小田原町ニ開設セリ自後府下ノ繁盛を加フルニ従ヒ遠近ノ河海ヨリモ魚物ヲ運送シ來リ売買上益々盛ンニ趣シ故本小田原町本船町河岸ヲ合テ市場ヲ開クニ至レリ
(一部文字が出てこない所あり。ご容赦ください)

「それ以降、獲れた魚類は幕府の膳所に納め(当初はもっぱら白魚を納めたらしい)、その残りを街で売っていた。しかし年を追ううちに同じような業者が増え、魚の販売も盛んになった。慶長の頃になると、森九右衛門(孫右衛門の長男)らが、幕府に納めていた魚の残りを引き受けてこれを販売するのに便利なように、売場を日本橋本小田原町に開いた。それから、江戸が栄えるに従ってさまざまな所の川や海で上がった魚もくるようになり、商売はますます盛んになって、本小田原町本船町河岸を合わせて市場を開くに至った」

当時、主に幕府に納められていたのは白魚なんですね。白魚は白色透明で、全長10センチほどの細長い優美な姿の魚で、サケ目シラウオ科に分類されます。白魚はシロウオとも読み、これはスズキ目ハゼ科の魚で別種のものですが、よく混同されています(踊り食いで出てくるやつですね)。

幕府に魚を納め、その残りを市中で売り始めた。さらにその商売が活発になっていくにつれて、さまざまな場所から魚を集めて売る市場を開くに至りました。江戸は武士が多く住む都市であり、大阪や京都とは魚の取り扱う当初の目的(幕府+武士への魚の供給。庶民はその残り)が異なっていました。

一般的に販売する際の価格と幕府に納める際の価格の違いなどにより後々大きく状況は変わっていくのですが、これは後のパートで。

次回以降、当時の魚屋さんがどう営まれていたのかの記述に入ります。

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