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『日本橋魚市塲沿革紀要』を原典で読む Part 11: 日本橋の魚屋・まげ・下駄

ここからしばらく元禄・享保の時代の話が続きますので、この時代の背景と、当時の魚屋たちが及ぼした文化的影響について、日本橋魚市場の歴史(岡本信男, 木戸憲成 著)をもとに簡単に触れておきたいと思います。

そもそも、元禄・享保期、日本橋魚市場は大変栄えておりました。Part 2で示した時代区分における隆昌期にあたります。

この期間における元禄時代に該当する史料は、実は少ないことで知られています。岡本・木戸では、当時の魚市場の隆盛のあまり、日々起きる事件が取るにたらないものとみなされたからだろうとまで書いています。享保期になると、徳川吉宗の享保の改革の影響もあり記録が増えていくのですが、日本橋魚市場が内面に抱えた矛盾が表面化して揺れに揺れ始めた時期であると言えるでしょう。

この時代の魚市場について、三田村鳶魚(みたむら えんぎょと読みます)という方が多くを書き残しています。例えば、髷(まげ)の流行について。本田髷という、当時粋な髪型として流行したものがありますが、これは日本橋魚市場の本小田原町の景気のいい連中が始めたもので、本小田原町の本と田という字をとって生まれたという説が残されています(ただし、本田忠勝の家風として残された髪型という説もあるので要注意)。

本田髷(コトバンク掲載より)

この他にも、下駄ばきについて。この時代の履き物は普通わらじか草履で、下駄は主に雨が降った時に履くものだったそうです。ただ、いわゆる通と呼ばれた方々は晴天でも下駄を履いていたそうですが、これも魚市場から生まれた流行だとしています。当時、魚市場は大変栄え、路面が一年中乾く暇がなかったため、いつも下駄を履き生きのいいものはそのまま晴天の巷に繰り出したことからそうなったとか。

三田村鳶魚の説は引用元が明示されていない部分もあるようで真否は岡本・木戸からだけでは私は判定できませんが、そのような時代背景の話が今後続くのだなということで、今回はここまでにしたいと思います。

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