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『日本橋魚市塲沿革紀要』を原典で読む Part 12: 浦賀奉行所と印鑑問屋

一 享保六辛丑年町觸アリ四組問屋新場本芝芝金杉魚問屋ノ内六十八名(本小田原町六名本船町三十四名横店三名安針町六名新場九名本芝三名芝金杉三名)印鑑問屋(魚船問屋トモ唱フ)ト称ス(本小田原町組本船町組内ニ紙切手問屋ト唱フルモノ十四名アリ廻船問屋同様ノ扱ヒヲ為ス)浦賀番所通航漁船ノ取調ヲ司レリ而シテ該問屋ハ各地ヨリ魚類ヲ運送シ来ル押送リ船ヘ通航手形ヲ給シ船主ハ之レヲ浦賀番所ヘ出シテ通船ス

日本橋魚市場沿革紀要

享保六辛(1721年)、お触れがあった。四組問屋・新場・本芝・芝金杉魚問屋の内(六十八とあるが)64名(本小田原町から6名、本船町から34名、横店から3名、安針町から6名、新場から9名、本芝から3名、芝金杉から3名)が印鑑問屋、別名魚船問屋と称することとなった。本小田原町・本船町には、紙切手問屋というものが14名あり、廻船問屋と同様の扱いを受けていた。この問屋は、各地から魚類を運んでくる押送船に通行手形を与え、船主は浦賀奉行所にこの手形を出して通った。

ペリーが来航した浦賀には、江戸へ入ってくる諸国回船を監察する浦賀奉行所という機関がありました(現在の横須賀市西浦賀三丁目あたり)。

Google mapsより。浦賀駅南の赤いところに浦賀奉行所があった。

通常はある程度時間をかけて荷を改めるのですが、鮮魚を運ぶ漁船や押送船(おしおくりぶね・おしょくりぶねと読みます。葛飾北斎の神奈川沖浪裏に描かれているのも押送船です)などについては簡便な方法が取られて市場へ直行できるようになり、モノが悪くならないような配慮がなされていました。

ですがそれでは浦賀奉行所に対して積荷の保証がされません。そこで生まれたのが印鑑問屋(別名、魚船問屋。うおふねと読みます)の制度です。印鑑問屋が発行する通行手形を持たないことには、押送船は魚類輸送に従事できないというものです。四組問屋などの64名が指名されました。

これによって問屋の中でも魚類輸送権を与えられる印鑑問屋の優位性が確立されていきました。それからの推移については次回以降に。

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