見出し画像

『日本橋魚市塲沿革紀要』を原典で読む Part 10: 市場の損失と幕府の救済

前回、日本橋で魚市場が乱立する場面が出てきました。当時、幕府への納魚(文字どおり、江戸幕府の膳所に魚を納めること)は魚問屋の誉れでしたが、市中価格に比べ大幅に安く買われることになり、経済的な負担となりました。それによってどのような対応が取られたのかが次に続く部分です。

日本橋魚市塲沿革紀要

寶永二乙酉年四組問屋及ヒ新場問屋ハ救助ノ為メ各所ノ地ヲ幕府ニ請願シ四組問屋ヘ十壹箇所(岸島銀町赤坂新町神田旅籠町南大工町日本橋青物町四谷傳馬町永井町赤坂一ツ木神田旅籠町二丁目富澤町新材木町)新場ノ問屋ヘ五ケ所ノ助成地ヲ給セラル各之ヲ貸地トナシ其地価ヲ以テ納魚ニ就テノ損毛ヲ補償シタリ

宝永二年(1705年)、四組問屋及び新場の問屋は、(経済的負担に関する)救済のため幕府に請願した。その結果、四組問屋へは11箇所(岸島銀町・赤坂新町・神田旅籠町・南大工町・日本橋青物町・四谷傳馬町・永井町・赤坂一ツ木・神田旅籠町二丁目・富澤町・新材木町)、新場の問屋には5箇所の助成地が支給された。それぞれ、これらの土地を貸地としてそこから得られる地価をもって納魚による経済的損失を補償した。

幕府に魚を納めることによる損失を土地代でカバーしていたんですね。現代だとあんまり想像しにくいかもしれません。
(それぞれの場所を後程補記します)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?