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霊学の生みの親〜戦争を予知した男

未来を見据えた判断は、投資のところで過去に事例を解説しました。

しかしながら、政治的側面において、戦争を予知し、回避策を高官に進言していた者もいるのです。それが本田親徳です。

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1822年の鹿児島に生まれた親徳は、十九の時に、水戸の会沢正志斎のところで、漢学、国学を学びました。

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1843年に京都藩邸に滞在中、和歌のうまい7歳の少女と出会います。
なぜそんなにうまいのか、彼女は憑依されていました。
そこから霊学を極めていきました。そもそも霊学という言葉を作ったのは親徳です。

これらの教えは、かの上田喜三郎(出口王仁三郎)にも伝わったわけです。

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親徳は、各地の霊峰を訪れ修行に明け暮れました。

明治初頭、広島の沼名前神社に職を見つけるも、役人は霊学を理解せず、辞めさせられたのでした。これほどの霊学の大家となる人物の価値を理解できなかったのは、大きな損失だったことでしょう。

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明治政府の要人だった副島種臣は親徳のことを知って入門しました。

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親徳は副島に対し、西郷隆盛が兵をあげるから、副島が薩摩に赴き、西郷を東京に連れ戻せとアドバイスを出します。

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副島はアドバイスを無視し、使者を送る程度のことしかしませんでした。
西南戦争となり、偉大な西郷隆盛を失ったのは、国家の損失そのものでした。

その後は浅間神社で霊学を教えるなどしましたが、明治22年、親徳はその生涯を終えました。


歴史から学ぶと言うのは、とても大切で、戦争を予見するほどの才能の持ち主でありながらも、沼名前神社では、解雇され、弟子の副島からはアドバイスを軽んじられるなど、折角の才能が生かされていませんでした。単に分かるだけでは能力は生かせないのです。それで、見えない世界の技能だけでなく、ロジックによる理論や哲学・思想も合わせて理解することが、大事なのだと思っています。


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