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【卓球】愛工大名電との思い出

卓球王国が今月号で、創刊25周年300号となった。おめでとうございます!

残念ながら創刊号から購読はしておらず、偉関晴光さんが全日本初優勝した10号が照井家に残る最も古い卓球王国である。

300号では、「愛知工業大名電中学・高校卓球部 メイデンの教え方 」という記事があり、ふと僕が関わったメイデンを思い出してみた。


メイデンというのは、愛知工業大学名電中学校・高等学校の略称であり、名電(カタカナのイメージはないので)と言えば、(僕の中では)イチローと工藤公康のイメージが強い。

卓球界であれば、今枝一郎、鬼頭明、真田浩二、の監督達であろう。

現在は、卓球界のトップを走る名電だが、僕の高校時代は、青森山田と仙台育英が断トツのツートップで、名電はその次を狙うチームだった。

ここで、高校時代の名電と滝二の成績を書いておく。カッコは主力選手。

2002年インハイ 

名電:ベスト4(岡崎、神谷、齋藤、加藤、青木)

滝二:1回戦敗退(藤本、西田、岡田、上西)

2003年センバツ 

名電:ベスト4(神谷、齋藤、山下)

滝二:ベスト16(上西、照井、渡邊)

2003年インハイ

名電:ベスト4(神谷、齋藤、安本、山下)

滝二:ベスト16(上西、照井、渡邊、瀬能)

2004年センバツ

名電:ベスト8(安本、安藤、松竹)

滝二:ベスト8(照井、渡邊、瀬能)

2004年インハイ 

名電:ベスト4(安本、安藤、松竹、大滝、篠原) 

滝二:ベスト8(照井、渡邊、瀬能、神谷)

このように、高校時代の名電は、全国ベスト4常連というレベルだったのに対し、滝二はまさかのインハイ1回戦負け(遊学館に2-0から逆転負け)から、必死に頑張り1個ずつ階段を上がっていった。


ここから名電との思い出を書きたいと思う。

滝二は練習試合をよくする学校だった。恐らく毎週練習試合をしていたように思う。そのレベルは様々で、強い学校よりも、弱い学校との練習試合が多かった。

当時は「弱い学校と練習試合して意味あんの?」とも思っていたりもしたの出が、この練習試合の多さが、僕に合っており、高校時代に成長した要因だと思っている。

逆に、大学時代は、部内の練習ばかりで練習試合なんて無かった。自分から東京の大学にも行かず、試合経験が少なくなったのが、大学時代に成績を残せなかった一因だと思っている。

練習試合で一番多くしたのは、岡山の関西と、広島の近大福山。この2校はレベルが近いこともあり、しょっちゅう練習試合をしていた。

滝二よりも成績の良い学校との練習試合は数えるほどしかなく、上宮1回、大阪桐蔭1回、遊学館2回、そして名電2回。いずれも僕らが練習試合に行かせてもらったかたちだ。

この名電との2回の練習試合は、1年生の時に2回か、1年生1回と2年生に1回かは覚えていない。

しかし、この2回の練習試合では印象に残っていることが今でもある。


まず、名電には、監督の鯛中先生の車で朝出発する。ちなみに鯛中先生の運転は荒く、運転が上手いとは決して言えない。

鯛中先生のワゴン車に、荷物と部員がギュウギュウに乗り、神戸から名古屋まで向かうのだ。

数時間のドライブで身体バキバキの状態から、名電との練習試合、そしてそのまま神戸にトンボ帰り。

その強行スケジュールをこなしていた鯛中先生の凄さに今では感謝するが、当時は「なんでこんな状態で、名電と試合して、速攻で帰らなあかんねん!」「絶対に勝てるわけないやろ!」と思っていた。

この練習試合で覚えているのが、神谷君、齋藤君、山下君、駒場君、安本君の5人である。


まずは神谷君から。現在、愛み大瑞穂高校の監督であり、静岡県の天竜中学校出身で、高校から名電に入学している神谷卓磨先生である。

確か、天竜中時代に、大阪オープンのカデットで、無名の神谷君が2歳年下ながらも第2シードの横山友一君に勝ったはず。その時に「天竜中の神谷って誰やねん!」と思った記憶がある。

名電に入学後、高1のセンバツではレギュラーとして、ベスト4入りに貢献。準決勝では、怪童坂本竜介さん(青森山田)にフルゲームまで迫るほど強くなっていた。(フルゲームのラブゲームという衝撃的な結果)

そして、名電との1回目の練習試合で神谷君と試合をした。結果は、なんと勝ってしまったのだ。相手は全国トップレベルで活躍する選手で、僕は団体レギュラー外の選手。

神谷君よりも明らかに弱かったはずだが、練習試合ではこのようなことが起きるのだ。勝つともちろん自信になる。

もし「強くなるには何が必要ですか?」と聞かれたら、僕は「自信」と答えると思う。自信をつけるには、練習をやり込むよりも、強い選手に勝つのが手っ取り早い。

そして、2回目の練習試合でも試合をさせてもらい、結果はフルゲームで負けた。負けたけどフルゲームだったので、明らかに手ごたえがあり、負けたが自信になった。

普通に「俺、神谷君だったらいけるわ」という気持ちになっていた程である。

サウスポーは苦手としていたのに、なぜ神谷君とは相性が良かったかは試合をしていてわかっていた。

まず、神谷君は縦回転サーブしか出さなかった。横回転がないので、レシーブミスをせずに、ストップとツッツキをすることが出来る。

そして、オールフォア卓球でドライブが綺麗だった。サウスポーだとドライブにカーブが混ざっている選手が多いのだが、神谷君のドライブは綺麗でブロックがしやすかった。

サーブが怖くない、ドライブもブロックしやすいということで、恐怖感を持たずに安心して試合に臨めたのが、相性が良かった要因だと、当時から分析していた。

このように神谷君との試合で、謎の自信を得ることが出来たのだ。


次に、斎藤君。190㎝を超える長身の選手で、ダブルスを組む神谷君は160㎝位だったのでで、凸凹コンビで有名だった。

斎藤君は、小学5年の東アジアホープス予選で初めて見た。

当時、僕は全国大会にでも出られないレベルだったのだが、チームメイトの藤本翔輝君が強かったので、2人目も同じチームからという適当な理由で出場出来たのだ。もちろん全敗で心に大きな傷を負った、、、

当時から断トツに背が高かったのだが、足の指を骨折していたのか、片方の足はサンダルで試合をしていたはず。それが斎藤君を初めて見た試合で、中2のカデットでは、カットマンの前田雄紀君に負けたのを憶えている。

確か斎藤君とは、2回目の練習試合で試合をしたと思う。まずラケット交換で驚いた。190㎝以上なので、斎藤君にラケットを掲げることになるのだ。「初めてラケット交換でラケット掲げたわ」と思った時点で心理的に不利になっている気がする。

実際に試合をすると、190㎝以上の長身を活かした豪快なプレーをしてくると思いきや、170㎝中肉中背のような、凡ミスの少ない地味なプレースタイルなのだ。

ラケット交換から心理的ダメージを与えられ、試合をするとギャップでペースをなかなかつかめない。「こりゃ勝つの難しいな」と思いつつ負けた記憶がある。


次に安本君。1歳下の安本君は、紆余曲折を経て、中学から名電の練習に参加していた。フォア表の安本君は、フォア面にティラノ(TSP)を使っていたのが印象的だった。

2回の練習試合で試合をしてもらったが、どちらも負けたと思う。しかし、負けておきながら「思っていたよりもチャンスあるな。もしかしたら行けるかも」と、その後、1回も勝てないのだが、手ごたえを感じていた。こういう感想を持つのも練習試合をするメリットである。


最後に、山下君と駒場君。共に1歳先輩なのだが、この2人とは良い勝負で勝ったり負けたりだったような気がする。

名電の特徴としては、弱い選手がいないのに驚いた。上宮、大阪桐蔭、遊学館だとレベルはピンキリで「絶対に負けないわ」という弱い選手もいるのだが、名電には、弱い選手がいない。感覚的には、全員が全国1回戦以上の強さだったと思う。

そんな名電で、頑張れば勝てる可能性がある、山下君と駒場君の試合は接戦で、面白かった記憶がある。

ここまで5人の選手について書いたが、午後の数時間で試合が出来るのは、多くて5試合位だったと思う。つまり、ほとんど負けて帰るのが名電との練習試合だった。


最後に印象に残っているのは、現監督の今枝先生である。当時は、田村先生が監督で、全国大会のベンチも田村先生だった。

今枝先生と言えば、今では名電の名監督と知られているが、当時は現役を終えて、先生になったばかりだったと思う。調べると、今枝先生は、1974年11月6日生まれなので、当時は、20代後半だったのだ。

卓球マニアの僕は、名電で今枝先生を見た瞬間に、「あれが、大学2年で全日本優勝!その後、将来を有望視されたが腰の故障の為、成績が出ず。日産自動車時代もなかなか結果が出ず、若くして引退した今枝一郎か!」と思うも、今枝先生の凄さを知らない他の部員達は、全くなにも思わなかったと思う。

当時の今枝先生は、他の学校の先生と雰囲気が違った。そもそも20代の先生がいなかったのもあるが、多くの先生は2パターンに分けられる。

1パターン目は、めちゃくちゃ怖い先生。怖すぎて、他校の僕も緊張するような先生である。例としては、上宮、杜若、遊学館である。

2パターン目は、その他の先生。高校生なんてのは、思春期で世の中を舐めている。怖くない先生であれば、基本的に先生を舐めていた。例としては、上宮、杜若、遊学館以外である。

よく練習試合をしていた、関西の柏先生、近大福山の白木先生は、全く怖くなかった(舐めていたわけではない)。僕らに対してだけかもしれないが、いつでも無駄なストレスを感じさせずに、練習試合だけに集中し、楽しむことが出来た。

今枝先生は、今までの先生とは雰囲気が違っていて「なんか怪しい雰囲気があるな」と感じていた。

外から見ていると、田村先生とは違い、選手との距離は近い。しかし、距離感の割に距離がある感じがある。

幽遊白書で例えると、多くの先生は玄海のように、厳しくも愛がある感じだった。今枝先生は、蔵馬のように見た目は良いが、冷徹に徹することもある。裏の顔が全く分からない。このような怪しい雰囲気を醸し出しているのが、当時の今枝先生だった。

練習試合では、2回話しかけられたのを憶えている。もう20年前のことである。

1回目の練習試合で「君、さっきの(カットブロック)わざとやったの?」と聞かれ、「いや、たまたまです」と答えると、「もっとやった方がいいよ」と言われた。

当時、15か16歳の純粋無垢な少年だった為、カットブロックを狙って出来なかったので、このような答えになったのだが、今だと嬉しくてカットブロックばかりしているだろう。

カットブロックなんて基本外の技術なので、注目されると「調子に乗ってる」と怒られるのではないかと思ったのだが、そこを褒めてきた今枝先生に対し「やはり、今枝一郎は他の監督と違うな」と思って記憶がある。

そして、2回目の練習試合では「君、何でそのラバー(キョウヒョウ)使っているの?」と聞かれ「先生に薦められたので」と答えると「それ合ってないから、戻した方が良いよ」と言われたのだ。

結果的に、僕はキョウヒョウを使いこなすことが出来たので、高校時代に結果を残すことが出来た。当時は、キョウヒョウに変えたばかりで、使いこなせていなかったので、今枝先生は言及したのだと思っている。

それよりも、前回の僕を憶えてくれていたのかと思い、「あぁ今枝先生に否定されたわー」と言うのと「今回も話しかけれくれたな」と少し嬉しかったのを憶えている。

この2回の会話がとても印象に残っており、今枝先生が他の先生と違うと感じたエピソードである。


その後、名電とインハイで対戦。社会人になって今枝先生とのエピソードが2つあるのだが、それはまた今度書きたいと思う。


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