僕の視覚障害の遍歴

自分の視覚障害の遍歴を一度ちゃんとまとめておこうと思う。人によく聞かれることでもあるし、自分史としてまとめると気づくことも多い。まとめてみると、大きく分けで4つの時期に分かれることがわかった。

10歳~14歳:自覚症状はあっても病気だと知らなかった時期

10歳ごろから夜盲や鳥目といわれる、暗いところで見づらいという症状が始まりました。当初、「暗い=見えない」はみんな同じだと思っていました。しかし、これは自分だけらしいと気づいたときがありました。目が見えないことをとても恥ずかしいことのように感じたのを憶えています。

14歳~24歳:病気だと知ったが周囲に隠していた時期

両親は、僕の夜盲の訴えに疑問を持ちました。そして、中2から中3に上がる春休み、父に連れられて眼科に行き、網膜色素変性症の診断を受けました。当時まだ矯正視力で1.0程度あったと記憶しています。しかし、このとき周辺視野がすでに失われ初めていることがわかりました、何よりショックだったのは、将来失明するかもしれないという宣告を受けたことでした。自分の将来に一気に暗い影がかかりました。

とは言え、白杖を使うほどでもなければ、盲学校に通う程度でもありませんでした。そのまま普通校に通い続けました。冬になると部活が終わって帰る頃には外が真っ暗で、足元がよく見えなくてつまずいて、それを何とかごまかしていたのが苦い思い出です。

その後、大学に進学しました。そして、一人暮らしも始めました。ごく身近な人以外には自分の目のことを話していませんでした。しかし、昼間でも何かにぶつかって怪我をするようになってきました。見えない怖さ、怪我をする痛み、なぜかそれを言えない自分、今後への不安がごちゃまぜでした、と今は思います。当時はそれを自覚できていなかった分、もっと混沌としていた気がします。

24歳~34歳:障害者としての自分に慣れていった時期

網膜色素変性症は、徐々に症状が進行していきます。僕の場合、その速度はかなり遅い方です。24歳のとき、生活するにしても仕事をするにしても、もう隠したままでは居られない、白杖を持とうと決意しました。これまでと違う自分にならなければならない、という気持ちでした。自分を奮い立たせていましたが、障害者になるということがショックでした。

障害者手帳の取得も行い、身体障害者というアイデンティティーが自分の中にどんどん入っていきました。ブラインドサッカーを始めたことで、視覚障害者の知人が増えたのは大きかったです。その後、妻と出会い、結婚します。障害があることを相手の両親に反対されるケースがありますが、自分たちの場合それがなかったのはとても恵まれていました。

34歳~現在:障害者の立場を活用し始めた時期

障害者というアイデンティティーにだいぶ慣れた頃、ユニバーサルマナー検定の講師のお話をいただきました。障害者であるという立場を活かして仕事ができることにワクワクしました。これをきっかけに、アドバイザーやコンサルティングのお仕事もいただくようになりました。これまで視覚障害=マイナスだと思っていたものがプラスになるということに、驚きと喜びがありました。

白杖を持ち始めた頃、自分の中で身体障害を特別視していた分だけ、自意識過剰になっていました。もしかしたら、その特別視が弱まるにつれ、逆に障害者の立場を活かせるようになってきたのかもしれません。

これから先の2つの未来

視覚障害の遍歴として今後起こりうるのは、全盲と治療の2つの未来です。全盲になるとは考えたくありませんが、その可能性があるのがこの病気です。しかし、他の同じ病気の人よりもかなり進行が遅く、僕はとても恵まれています。一方、目が見えるようになるという未来もあります。iPS細胞による治療などの研究が進んでいます。少なくとも僕が死ぬまでの間には治療法が確立されるのではないでしょうか。

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