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カレー蕎麦

 通ぶっているわけではなく、グルメだとも思っていない、ただ食べることが大好きなだけの私だけれど、食に関してなんとなく、いわゆる“通のルール“に従ってしまうことがある。
 例えば、寿司は光りものなどあっさりしたものから食べていって、トロやイクラは後にするとか、蕎麦は最初はツユにつけないで、蕎麦だけ食べて香りを楽しむ、ツユにはつけてもちょっとだけ、海苔も山葵も香りが邪魔するから付けない方がいい…。
 そんなことを誰が言ったのか、正しいのか分からないし、面倒くさいけど、守っていると通になった気がする“通のルール“。
 そのルールだと「カレー蕎麦」ってどうなんだろう。

 私の職場の近くのオフィスビルの地下には“味の名店街”があった。寿司屋、中華、洋食、そして、蕎麦屋。どのお店もいい意味で洗練されておらず、オフィスビルの地下にあるけれど、“町の”が似合いそうなお店ばかり。ランチ時間のピークを過ぎて、洋食屋さんのご飯が少し足りなくなったとして、新たに炊くのは時間がかかるから、隣のお蕎麦屋さんにご飯を少し借りにいってお客に提供する。洋食屋さんで働いていた女性がしばらくしたら蕎麦屋さんで働いている。そんな例がいくつもある人情味あふれる昭和なお店たち。

 そのうちの蕎麦屋さん、「京金」は60過ぎの大将が調理を担当、ランチ時はホールにパートのおばちゃんが2名働いていて、4人がけテーブルが6つ、2人がけのテーブルが4つくらいぎゅうぎゅうに置いてある。店内ではチューナーだけデジタルに変えた14インチのブラウン管のテレビが常に付いていた。
 蕎麦にはあまりこだわっている感じではなく、カツ丼と蕎麦のセットや、定食がメインで、蕎麦の香りよりも揚げ物の匂いがするお店だった。

 その頃、私にはKさんという上司がいて、ランチはいつも一緒。ランチを一緒に食べるのもコミュニケーションだ、付き合うのが当たり前だと言っているような、これも昭和な人だ。
 Kさんには、ランチに行くお店のローテーションがあり、お店ごとに頼むメニューもほぼ決まっている。その中の一つが「京金」で、頼むのは決まって「カレー南蛮蕎麦」だった。

 「カレー南蛮蕎麦」。カレーうどんはOKでも、蕎麦の香りがカレーにより完全に隠れてしまい“通のルール”ではありえないであろうメニュー。
 Kさんが二日酔いの時、必ずランチは「京金のカレー蕎麦」だった。カレーうどんもメニューにあるのだが、蕎麦だった。私は最初、“通のルール“により頼むのを躊躇していたが、一度食べるとそのパンチ力にやられた。Kさんと一緒にカレー蕎麦を頼むと、もれなく同様に熱々の辛口にされてしまう。Kさんは自分の好みに少しずつカスタマイズしていって、ついに好みのカレー蕎麦にしたのだった。

 カレー蕎麦の見た目と中身は他店との違いはない。豚肉とタマネギを具材にして蕎麦屋の出汁にカレー粉、片栗粉でとろみをつけてある。そして、別添えになっている薬味のネギ。
 何度か食べているうちに、うどんより、蕎麦粉の方がスパイスと相性が合っているのではと思えるようになってきた。蕎麦粉はスパイスの一つなのかもしれないとも思える。とくに辛さを増している京金のカレー蕎麦はスパイスがよりシャープで力強い。カレー蕎麦は冷めにくいことから、カレーうどんと違って麺が伸びやすく、敬遠される理由の一つなのかもしれないが、京金のカレー蕎麦にはそれを感じなかった。さらに別添えの薬味のネギも、カレーに後からフレッシュスパイスのパクチーを投入するように、スパイスを重ねることになっていたのかもしれない。カレーにはまった今、京金のカレー蕎麦を好きになった理由が分かる気がする。

 いつしか私の中でも京金のカレー蕎麦はランチローテーションの一角となった。

 辛口カレー蕎麦で常連になった私たちが行くと大将からのサービスとして、カレー蕎麦の中にトンカツが二切れほど入っているときもあった。ただ、忙しいときには辛口はできないぞと大将から言われていて、Kさんが職場の取引先にオススメのお店としてカレー蕎麦を紹介した際などは、対応できないから知らないやつに教えるなと大将に叱られたこともあった。
 京金の大将はワンマンで、口うるさいので、パートのおばちゃんもあまり長続きせず、よく人が変わっていた。それでもなんとか働いてくれる人が見つかっていたようだったが、そのうちついにホールの人がいなくなってしまった。
 しばらく、大将が調理から接客、会計まで一人でこなしていたが、年齢もあり体調もあまりよくなさそうで、ついに店を閉めることになった。

 京金最後の日は常連さんがたくさん並び混雑していたが、カレー蕎麦を食べたさに行ってみた。大将からは、今日は忙しいから辛口はできないぞと言われたが注文。出てきたカレー南蛮蕎麦は全くスパイシーではなく、蕎麦屋の出汁の効いた優しく美味しい蕎麦だった。これはこれでめちゃくちゃ美味しい。これが京金の普通のカレー南蛮蕎麦か。最後の日に初めて味わった。辛口からまろやかな味まで、大将の人柄と同じ。丸くなってお店を閉めるんだな。

 元上司のKさんも2年前に退職して職場にはいない。“味の名店街”も次々にお店が閉まってしまい、中華料理のお店が一軒あるだけになってしまった。
 今でもたまに定食メインの蕎麦屋さんではカレー南蛮蕎麦が気になってしまう。だけどもう、京金のカレー蕎麦の辛さと熱さは味わえない。大将は元気だろうか。

 今後、カスタマイズできる蕎麦屋さんを見つけることはできるかな。

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