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なぜカメラで写真を撮るのか

長らくnote放置してましたが自分が思ったことややっていることの記録はきちんと残したほうが良いと常々思っているので突発的にこの記事を書いています。


最近機材ばっかり買って肝心の撮ることのほうが疎かになっているので、ちゃんと撮ることについて考えたい。

そんなに撮ることが好きなわけでもないんだと思う。
カメラ持って出かけても20枚とかそこらしか撮らない(撮れない)し

カメラが好きと言っておきながら頑張らないと写真が撮れないというのは変な話なんですが、なんでもマンネリになる時ってあるし、それを乗り越えて続けるから上手くなるんだよな、と。


  1. 撮るという行為自体が楽しい

なんでもそうだけど、行為が楽しいということは本当に幸せなこと。
ムツカシイことを考えなくても、五感が気持ちいいと言っていれば永遠にやってられる。
シャッターを押すフィーリングが好き、ファインダーをのぞいた時の没入感が良い、なんていうのがこれかなと思う。

もちろんそれがないわけじゃないんだけど、それを得るためには撮影するという環境を作らなくちゃいけないので、やっぱりほかの動機づけが必要かなと思ってる。


2. 他人と共有するための手段

思わず写真を撮ってしまう時というのは自分が後で見返したい情報が入っているとき(記録のための手段)と、他人に見せて共有したいときだと思う。

ブログを書くために経過写真を撮るのは前者だし、外を歩いてて芸能人がいたときに思わず写真を撮るのは後者だろう。

ストーリーを裏付けるための証拠であり無くても成立するし別にスマホで撮ればいいかな。


3 . 自己承認の手段

友達と遊ぶとき、旅行に行くとき、ハレの日の儀式に参加するときなど、みんながみんなカメラ機材を持っているわけじゃないし、写真撮るのが好きなわけじゃないから記録係がいたほうがいいしいい写真が撮れたらみんなに見せたいしそれが役割になる。
自己承認なんて書いたら大仰だけど得意を生かすってことだよね。

決して悪いことじゃないけどこういう時にしか写真を撮らなくなってしまったから困ってるんだよ。

ちなみに自己承認といえばSNSだけど
人気商売をしているわけじゃ無いし(趣味でやっているので)、
SNSは写真を評価する場じゃないからSNS映えする写真を撮ることを目指すならやればいいと思うけども。
まあ自身が見返す為にアーカイブしていくというのはある。しょうもない写真でデータ容量を圧迫してすみません・・
同好の士を見つけるためっていうのもあるのか。
自分は何分コミュ障なもんでなかなか難しいっすね。。


4. 自己表現の手段

自分の中にある感情や伝えたいことを表現するために写真という手段を使うってこと。アートとしての写真。
こう書くと大層なことっぽいけど、自分の好きなものをコレクションするつもりで写真を撮ることって結構みんなやってるんじゃないかな。

写真展とか写真集とかで出せるような作品はテーマがしっかりしてるっていうのがただ「綺麗な写真」との違いだと思う。

見返すとたまにあるなんで撮ったか分からない写真を見つけると嬉しい

ちょっと話それるけど、趣味として写真を撮るなら「汚い写真」を撮りたいんよね。
好きの反対は嫌いじゃなくて無関心、みたいにいい写真(表現力のある写真)の反対は意味のない写真だと思っているので。
綺麗な写真はそれに意味がなくても撮るけど、汚い写真は意味がないと撮らないよね。

見返すと綺麗な意味のない写真を量産したくないという気持ちがあります。




これを踏まえて、自分が何で写真を撮り始めたのかを考えてみる。

初めてカメラを買ったのは確か2017年にSonyのα6000だったと思う。
海外に行くチャンスがあったり、趣味として登山を始めたりしたので、きれいな景色を写真に残したいっていう気持ちだった気がする。
今みたいにスマホの写真が綺麗じゃなかったような気もするし。

それでだんだんと登山中や星空みたいななかなか普通じゃ行けない・見れない場所の写真を撮ることがモチベーションになってった。
自分しか撮れない場所で撮ったらテーマとか技術とか関係なくオンリーワンの写真だもんね。
ある意味極地探検家が撮ってくるような証拠写真的要素半分、綺麗な絵(こんなにも世界は美しい的な笑)的要素半分という感じの写真を撮り続けてた。

2月の五竜岳。今でも1番山様が好きな山。

でもだんだんと過酷な環境に身を置くのが億劫になっていったのと、山にカメラを持っていくんじゃなくて写真を撮るために半ば義務的に山に行くのが不健全だなって思えるようになってきてしまって遠ざかりつつある。
写真撮った後にレタッチをすることにも疲れちゃって、SNSで流れてくる写真を正解にして補正していくのって、自分が撮る必要あるんだろうか?って。

レタッチが悪いことだとは思っていません。
プリントで自分の理想のコントラスト・色調に近づけていくのと一緒ですよね。デジタル時代における写真と向き合う時間になるので良いんじゃないんでしょうか。
方向性の問題。


メイクとテイクの問題もあるよね。
メイクする発想っていう部分はあるけどどうしても技術的要素が強いように感じてしまって、(その技術を身に着けることができれば)誰が撮っても同じなんじゃないかって。もちろんそんなことはないんだけど。

風景写真は行ってみなきゃわからない感動もあるけど、ある意味天候や太陽の角度、風景の様相を予想して狙った時間に行って撮るのはメイク的要素が強いのかなって。




トワイライトの時間が好き

まあいろいろ書いたけど自分の中に湧き上がってきた撮りたいの気持ちに従って写真を撮るのがいいんだと思っている。

例えば自分が夕焼けに染まる街が好きだとして、それ1枚だとただの綺麗な風景、意味のない写真なのかもしれないが、その写真を撮り続けることによって、色彩なのか、情景なのか、どの部分が自分にとって重要なのか(=主題=テーマ)が見えてくるのかもしれない。

そんなポンポンテーマが自然と出てくるような人間じゃないからきちんと決めて行動しないといけないけど。

そんな感じです。
唐突に終わります。



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