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障害は越えるためにある 視点変えて開いた扉 第6回テラロック

 2020年、社会は新型コロナウイルスへの対応を余儀なくされた。会合の自粛が相次ぎ、中止、先送りされたイベントは数知れない。「コロナが、チャレンジしない理由になっていないか」。感染症が人々の心理に影を落とした1年が暮れようとする12月9日、寺西康博さんは「挑戦」をテーマにオンラインで第6回テラロックを開いた。登壇したのは、自分あるいは子どもに重い障害のある3人。いずれも降りかかった災難を創造のエネルギーに転換した。「マイナスも角度を変えて見ればプラスになる」。どこまでも前向きなゲストの言葉は、停滞感の打破を狙った主宰者の期待にたがわず力強かった。(共同通信社高松支局 浜谷栄彦)

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▽不屈

 「手で階段を登った。毎日が筋トレ。おかげでメダリストになれました」。上原さんは10年バンクーバーパラリンピックで銀メダルを獲得した。種目は、パラアイスホッケー。そりに乗って激しく体をぶつけ合う競技だ。小中学校、高校は普通学級に通った。校舎にエレベーターはない。各階に車いすを置き、両腕を使って階段を昇降した。たくましい腕は、両手に持ったスティックで氷をかき、そりを滑らすための推進力になった。次世代に経験を伝えようとパラスポーツの普及に努めている。

 毛利さんは米国に留学していた2004年、海で遊泳中に大波に打たれて首から下の自由を失った。国内屈指の棒高跳びの選手だった23歳が突如、障害者に。医師は「一生寝たきりを覚悟して」と告げた。独自のリハビリを続け、今では介添えがあれば歩くことができる。社会福祉法人の経営者となって13年。「負傷した時、自分の体はマイナスにしか見えなかった。でも、けがのおかげで障害者の目線で事業をつくることができた。これが私の価値だ」

 「安定第一、会社員万歳だった」という太田さんは今、障害のある乳幼児を預かる施設を運営している。17年に出産した長男は水頭症だった。職場に復帰したくても預け先はなく「どん底にいた」。ないなら自分でつくるしかないと決意し、19年に施設を開所する。20年9月には、より障害が重く医療的ケアが必要な子どもが通える支援室も発足させた。苦労は絶えないが、「障害を持ったお子さんのお母さんも支援していきたい」と新たな事業構想を膨らませる。

▽排除

 3人は壮絶な体験をあっけらかんと語る。ただ、周囲の無理解に憤ったことは1度や2度ではない。毛利さんは米国から帰国後、就職活動に臨んだ。1社も面接してもらえず「腹の立つ、悔しい時期を過ごした」。独学で勉強し、法人を立ち上げるに至った。「プラスでもマイナスでも自分の言葉は脳に刷り込まれる」。だから「愚痴は最小限にとどめて」、どうすれば状況を打開できるかに思考を集中している。

 生まれつき下肢が不自由だった上原さんは「自分が味わった嫌な思いを子どもたちにさせることほど無駄なことはない」と考えている。最近、ある体育館で車いすの使用を断られた。「はあっ?て言って、速攻でスポーツ庁に申し入れですよ」。障害者の活動を阻む慣習を日本から消し去るため、NPO、一般社団法人、株式会社といったさまざまな手段を駆使して取り組んでいる。

 寺西さんによると、太田さんは「社会から排除される感覚」を味わったことがあるという。長男は頭部からお腹にかけて医療用の管が入っている。磁石を近づけると機能が狂い生死にかかわるため、預けようとした保育所は軒並み嫌がった。くじけそうになったが、自分と似た境遇の母親たちにSNSを通じて励まされ、前を向くことができた。

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▽諦めない母

 強靱な精神を持つ3人だが、周囲の支えなくして今日の姿はなかった。上原さんは「私の母、鈴子はすごい母で、私が幼い頃、自転車に乗りたいとせがんでも無理とは言わなかった」と振り返る。鈴子さんは電話帳を広げて片っ端から電話をかけ、群馬県内に手でこげる自転車を売っている店を見つけた。自分自身も、「できない」と即答せず、子どもと一緒にどうやったらできるか考える時間を大切にしている。「世の中の無理をアイデアとのかけ算で可能にしていく作業が楽しくて仕方ない」

 太田さんは先述した「ママ友」のほか、徳島県信用保証協会にも助けられたという。協会が主催する塾で起業の基礎知識を身に付けた。事業計画書の書き方も教わり「ありがたかった」。毛利さんは「妻の存在は大きい。私のエンジンが10倍ぐらいになった」と話す。毛利さんの妻は婚礼時の着付けを担当した経験がある。障害者を含むマイノリティーの人たちがきれいになれる方策を夫婦で話し合い、福祉美容という新たな事業に結びついた。

▽差別

 「障害児の一番の差別者は親御さんだったりする」。上原さんが意外なことを言った。パラリンピック参加の障壁は「場所、お金、親御さん」の三つだといい、とりわけ親の「あなたには無理」の一言が子どもの可能性を閉ざしてしまう。先日、車いすの子どもを集めたイベントで上原さんは縄跳びを披露した。「周りで見ていた親御さんは(うちの子には)できない、と。ばかにするなよ」。集まった子どもたちは車いすに乗った状態で全員縄跳びができた。

 おそらく親は、子どもが失敗して傷つく姿を見たくないのだろう。あるいは障害者に難しいことはできないという先入観があるのか。福祉、医療関係者も差別者になりがちだという。家族に障害者がいなくても公共交通機関などで出会う機会はある。上原さんの発言はフラットな目線を持つ大切さを教えている。

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▽挑壁者

 毛利さんは「障害者という言葉が嫌い」と話す。事業を通じてチャレンジを繰り返すうちに、いつしか首から下の不自由は自分が挑むべき壁に思えてきた。「その目線で社会を捉え出すと、みんなが課題と向き合う『挑壁者』に見えた。波は私の首の骨を折った。そのおかげで本気で生きるようになった」

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 太田さんは「やらざるを得ない状況になった時、はじけちゃった」と笑う。「みんなに自分らしく輝いてほしい」と太田さん。困難を乗り越えようと走り続けた結果、周囲を照らす存在になった。

 「逆境って何ですか」。毎日が充実し、興味のあることしかやらない上原さんにとって、障害を否定的に捉えること自体が時間の無駄なのだろう。「課題は楽しい。課題を感じた時は何かを変えるチャンス。私にしか解決できない可能性がある」。必ず道は開けると信じているからさまざまなアイデアがわく。アパレル企業と提携し、車いすの女性が最短10秒で身に付けられる着物を作ったこともある。

▽捉え方

 毛利さんは「コロナで苦しんでいる人がいたら申し訳ない」と前置きした上で、コロナ対策として事業者向けの無担保無利子融資が拡大したことは幸運だったと喜ぶ。長期計画になかった設備投資をこの機会に実行した。太田さんはコロナで断念した親子通園の代わりに導入したオンライン参観が好評だったといい、収束後も続ける方針だ。

 寺西さんは「3人ともすごい。皆さんにとって壁は悪いものじゃない。コロナが挑戦しない理由になっていると思い今回のテラロックを開いたが、皆さんのポジティブさは想像以上だった」と称賛した。逆境と思えることも、視点をずらせばチャンスに変えられる。毛利さん、太田さん、上原さんが生き方で示している。

 寺西さんは19年7月の第1回テラロックで参加者に「認識のリフレーム」を促した。筆者は笑ったけど、今となれば本質を突いた提案だと分かる。障害はマイナスか、田舎は不利か、持たざることは不幸か。結局、自分の捉え方次第なのだろう。今回の報告は毛利さんの言葉で締めくくりたい。「あなたは本気で生きていますか」

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第6回を終えて(テラロック 寺西康博)

 毛利さんは、怪我をした直後に医師から「一生寝たきりの生活になる。人口呼吸器も一生外すことはできない」と告げられました。常に前向きな毛利さんでも、「時計の針が逆に回らないか」と願ったそうです。それでもすぐに呼吸を取り戻す挑戦をはじめました。挑戦をするかしないか、それらを分かつものはなにか。私は「無意識に形成された自らの限界を破壊できるかどうか」だと思います。毛利さんは人口呼吸器を外す訓練で何度気絶しても諦めず、自発呼吸と声を取り戻しました。

 「君にはできない」、「無理だから諦めろ」。このような言葉が残念ながら社会に溢れかえっています。加えて、コロナ禍は、やらない、できない理由の恰好の材料として定着しつつあります。思考を停止し、自らの限界を定めてしまえば、快適な空間に居られるのかもしれません。不安や恐れは人間の本能で防衛機能として重要なものです。しかし、その感情に囚われ、快適な空間に居続けようと固執することは幸せにつながるのでしょうか。

 3人は「できない」、「無理」と言いません。「どうやればできるか」その過程を楽しみ、いかなる状況でも前を向く。決して簡単ではありません。ただ、3人がコロナ禍という壁すらも楽しみ、新たな事業やサービスの創出に転換しているという事実。「社会の困りごとを消し去りたい」という強い気持ちが「どんな場面や境遇も、捉え方次第で価値に変えられる」心のありようにつながっているように感じます。

 誰もが突然の不条理や逆境に遭遇する可能性があります。その時に嘆き悲しみ、思考を止め行動しないのか。それとも、その状態すらも楽しみ、社会に新たな価値を創っていくのか。選択は自らの心次第です。一つ確信したことは「壁に挑むことで得られる幸せ」はきっと人生を豊かにする。私も挑み続けます。