0-#2 ツール(道具)ってなんだ
1.二つの道具観
学校の世界には大きく二つのツール(道具)観があるように思います。
一つは道具とは意図を実現するための手段なのだから、目的こそが大切であり、道具にこだわることは、問題から目をそらすことにつながるというものです。
もう一つは、「道具とは何かなんて面倒くさいことは考えず、使えるものは使えばいい」という考え方です
どちらかといえば大学の研究者には前者が多く、学校現場には後者の考え方をする人が多いように思いますが、筆者はこの考え方は、どちらもちょっと違うのではないかと思います。
前者について、道具とは第一義的には意図を実現するための手段であるということはその通りですが、実際にはそこに他の働きが付加されたり、その使用を介して人の意図や目的性、さらには主体のあり方自体をも変化させることがあります。
後者について、有効な道具を使うことは、別に悪いことではないのですが、上で述べたように、道具は使用されることで主体自体をも変化させるため、意図とは違ったところに結果したり、手段の自己目的化を生んだりもします。特に教育の文脈でそのことを問わずに、有用性の観点だけで道具を使っていけば、子どもの発達をゆがめないとはかぎりません。
例えば自動車はもともと移動の手段として発明されたものでしたか、ドライブのように移動自体を楽しむ文化を創造したり、ステータスシンボルの一種として人の所有欲の対象になったりもします。
計算の道具として発明されたコンピュータは人の文化を変化させ、さらには人間自体をを変化させました。
2.道具を問うこと
だから、教育の道具を問うことは、単に教育の手段を問うことにとどまりません。
例えば、2015年以降、各都道府県や政令指定都市では、教員の資質力量向上手立てとして「教員育成指標」という教員に関する職能発達基準(ルーブリックの一種)を作成するようになりました。
教員育成指標は第一義的には教員の成長を促すための手段ですが、その影響はそこにとどまりません。
これが校長と教諭との面談で用いられるときには、対話の媒介物として教員と校長との人間関係に影響を与えます。
またこれが教育センター等の研修において使用されるときには、それに応じて教員の研修計画を策定する準拠枠になります。
さらにそうした教員としての専門性の発達を「基準に照らして考える」という思考パターンが当たり前のように当てはめられることによって、教員の資質力量とは、指標に示す各要素に分解されうるものであり、それぞれの要素は研修等によって段階的に成長しうる(している)ものであるという職能イメージが普遍化されることにもなりえます。
筆者は、その活用によって効用と引き換えに人の思考を限定してしまう道具を(良し悪しはともかく)「つまらない道具」、逆に人の思考を拡大しうる道具を「面白い道具」と呼んでいます。
ここで紹介するのは、筆者自身が開発した、「面白い道具」であると自分では思っているものです。
(次回に続く)