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Ⅰ-#2 カリキュラムはサビる

劣化するカリキュラム

毎年同じ教材を使って同じように学習を繰り返しているのだけど、子どもの反応が鈍くなってきた・・・ある程度ベテランの教員であれば、そんな経験をしたことが大抵はあるはずです。

とりわけ、教科カリキュラムよりも、学校独自に設けた総合学習のプログラムや、キャリア教育の場合にこの傾向は顕著です。というのも教科カリキュラムについてはある程度評価方法が確立しているので、カリキュラムが劣化すればテストの結果などに表れるし、また学習指導要領の改訂に伴って、定期的にカリキュラムを見直しをする機会があるからです。

さて、基本的に同じ計画で教育活動を計画・実施しているはずなのに(そして教員の経験値は上がっているはずなのに)生徒に与える影響が変化するのはなぜでしょうか?それは形式的には同じカリキュラムでも定期的に磨きをかけていかないと中身がサビついていくからです。

「意味」の劣化

もう少し具体的に説明してみましょう。例えばA中学校のキャリア教育で職場体験プログラムをを始めるとします。

初年度はそれによって生徒がどんな成長を果たせるのかを考え、受け入れてくれる職場を探し、発生しうる問題についても校内で話し合われるでしょう。生徒に伝えるときも緊張感が伴い、生徒もその緊張感の中で体験活動に臨みます。

次年度は1年目の経験があるので、初年度よりは落ち着いて取り組むことができます。初年度の問題点も改善できているので、先生方のストレスも初年度よりはずっと減ります。生徒もやや落ち着いて取り組めるようになるでしょう。

三年目はもしかしたら過去2年間中心となってプログラムを運営してきたB生が異動になるかも知れません。けれどもそこは真面目なB先生のこと、しっかりと引き継ぎ資料もつくり、後任が困らないように工夫します。そしてそのおかげて、次年度も滞りなく実施することができるでしょう。生徒もすでに先輩が体験してきたプログラムなので、特別な緊張感なく職場に赴きます。

・・・とこのように、当初おっかなびっくりながらも緊張感をもって取り組んでいた実践も板についてくると同時に緊張感も失われていきます。同じことを実践していても、そのカリキュラムが教員にとって持っている「意味」は決して同じではありません。

そして教師の側に緊張感が失われると、子どももなんとなく惰性で活動をこなすようになってきます。子どもは教員の言われたことの内容に反応しているというよりは、感情に反応するからです。

このようにして大抵の学校では必要な対応はそれなりにしているのですが、それでも月日が経つにつれ徐々にい、学校のカリキュラムはサビつき、惰性化して昨年と同じようにやればいいという意識が広まっていきます。

「暗黙知」の視点

さて、人間の頭は、回数を重ねることで様々なことを自動的に処理するようにできています。例えば車の運転です。自動車学校に通っている頃は、ギアの入れ方や加速の仕方、停止時の確認など一つ一つのことを意識してやらなければならなかったかも知りませんが、慣れてくるにしたがって意識せずともできるようになります。

こうした、身体で知ってはいても意識にのぼらない知識のことをマイケルホランニーという哲学者は「暗黙知」と呼びました。

学校の教育活動も同じことで、回数を重ねることで多くのことが自動化されています。また、そうでなければとても学校は回っていきません。

そして学校内の実践が暗黙知化されていくにしたがって失われていく、おそらくもっとも大切なことが「何のためにその活動を為ているのか」という活動の「意味」の部分です。特に公立学校には異同があるので中核的な教員が移動してしまうと、プログラムの形式的なカタチだけは伝わっても、その活動に伴う「意味」については伝えることができないということがままあります。

では学校は、このような必然的な進行する形骸化に対して、どのように立ち向かってったらよいのでしょうか?

実はこうした暗黙知の視点を組み込んで組織を活性化させていくことに焦点化した「知識経営」という理論があります。

次回はこの点について解説します。