2024.3.19 サッカーボール

 ここのところ、物事のいろんな側面を見せられているような気がする。世界はA面B面なんてわかりやすい分類ではなく、サッカーボールみたいに五角形と六角形がたくさんあって、人によって白くも黒くも見えるのだろう。
 Twitterで身障者の方が映画館で何度か受けていた車椅子介助を、今後はできませんと言われたことに対して悲しいとつぶやいておられた。それに対するさまざまな反応がTLに流れてきて、自分の考えの浅さや、人はどこに着目して反応しているのかを観察していた。これはいい悪いの話ではなく、車椅子の方の感情に視点を合わせるのか、車椅子移動のリスクについてなのか、商業施設側の安全管理の話なのかを考えさせられた。

 わたしは幼少期から自分を空っぽだと感じていていて、時間も日常も全て自分の中を通り過ぎていくような感覚がある。動物的なのだろう、目の前の状況に反応しながら生きていると思う。今はちょうど長男の高校受験が終わり、合格発表を待ちで合格したときの予定と不合格のときの対応を考えていて、合間に次男のバスケットや三男の空手、細々とした自分の仕事から旦那氏の仕事、墓参りの予定までが乱立している。正直わたしの手に負えない。思考はとっ散らかり、やらないといけないことが目白押しにも関わらず、気がつくと何かを作り本を読んでいて、直前まで自分がなにをしていて、なにをしようとしていたのかわからなくなる。だからといって、乱立するタスクを片付けない訳にもいかず、思いつきで中途半端に手や口を出しては人に迷惑をかけることも多い。
 自閉傾向があるからか、わたしにとっては高校の入学手続きにしても、どんな順序でどう動いていいのか分からないことがしんどい。どうすればいいのかという判断を安易に他人に任せることも、言われた通りに動くこともできなくて(言われてないことを汲み取って動くことはもっと苦手)、常にアンテナの感度をあげていなければならない。普段は死んでるアンテナの感度を上げたところで、誰かの思考や不安を拾ってそれに振り回されているような感覚がある。実際、振り回されているときにはそんなことを考える余裕はないのだか。

 なんだか話の収集がつかなくなってしまった。何はともあれ今日は合格発表で、もう少ししたら長男から合否の連絡があるだろう。人生がサッカーボールだとして、黒を気にして過ごすのか白に目を向けて過ごすのかで心持ちが変わってくるように思う。わたしは通帳を握りしめてどこに学費を振込むことになるのかと、コーヒーでも飲みながら待っていよう。

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