月曜の月

早朝から40分×2柱坐った。ぼーっとする頭で立ち上がり、ベッドへ手足を投げ出す。僅かな時間に夢を見た。

空を覆うほど大きな満月をビルの谷間から見上げている。今回の新月は地球から遠いところで起こるはずなのに、えらく月が近いことが不思議だった。新月なのに月が見える。大きな月は清水玲子の漫画みたいだった。漫画では人々は「月が落ちてくるぞ!」と叫び、世界はパニックになっていた。

接心(集中的に坐禅を行う期間)の真っ只中だというのに、日曜の夜は生ビールが飲みたくなって旦那氏と近くの居酒屋に行ってしまった。接心中だし、旦那氏の体調を心配してるくせにどうなんだろうと迷いながら誘ったら二つ返事で行くことになった。子どもに近くの唐揚げ屋さんにおかずを買いに頼んだら閉まっていたと帰ってきた。はぁーとため息をつき、再度お弁当屋さんにおつかいを頼む。自分たちも出掛ける支度をする。日曜の夜道は車も人も少なかった。近くの居酒屋はこの日に限って22時までで、メニューは品切れが多かった。ほとんどの客は21時には帰り、気を使ってわたし達も早めに店を出た。家に帰ろうかと思ったが、旦那氏はもう少し飲みたがった。歩いて向かった2軒目の店は、安いがあまり美味しくなくて少し飲み食いして家路に着いた。12時近くに寝ようとしたらソファで寝ていた末っ子が大量の鼻血を出した。末っ子を旦那氏にお願いして先に寝たが、接心中にお酒を飲んだ後ろめたさと、飲むと体調が悪くなる旦那氏にあまり飲ませないほうがよかったという罪悪感で夜中に何度か目が覚めた。
空がうっすらと青い。スマホを見たら朝の坐禅の時間を20分ほど過ぎていた。慌てて顔を洗い、姿勢を正して坐りはじめる。聞いたことのない鳥の声がする。

そうやって月曜の朝から2柱坐って夢を見た。
末っ子にくっついてゴロゴロしていたら、急に長女が部屋に入ってきた。無言でクローゼットから夏服を取り出して去っていく。気がついたらお弁当を作る時間はなかった。
慌てて長男を起こして、のんびりしている末っ子を保育所に送り届ける。後から忘れ物を届けると伝えて、家に帰る。諸用を済ませて、京都まで坐りに行こうと戸締まりをしていたら、リビングの窓が開いているのが見えた。どうやら猫が外に出たらしい。猫は家の周りにいるのだが、家に入る気はなさそうだった。末っ子の忘れ物を届けるタイムリミットはすぎてしまった。諦めて出掛けようと玄関のドアを開ける。目の前に猫がいた。警戒している。家の中からいつも一緒にいる子ども猫の鳴き声がする。子ども猫の声に立ち止まったところをなんとか捕まえて家を出た。
手前にあった長男の自転車で駅に向かう。急ぎたいがチェーンが外れそうだ。ガタン、ガタンとペダルを空回りさせながらそーっと漕いで駅まで向かった。

昨夜からこんなにうまく行かない日はないと言うくらい、何かと小さなトラブルが起こる。毎回自分に問いかけ、決断を迫られる。飲みに行くのか、猫を探すのか、猫は放っておいて坐禅に行くのか。自転車を交換しに一旦家に帰るのか。
迷っていると飲みに行っても楽しめなかった。坐禅に行くと決めると猫が帰ってきた。スムーズではないが、決めることで動き出す。

旦那氏と長女にタロットに出てくるライオンについて説明した。四つ足の動物は基本的には野生の本能だと言った。本能的な欲求は人の理性では抑えこむことはできない。上手く付き合っていくしかないのだ。

逃げ出した猫はわたしの本能的な欲求のように思えた。わたしは家事と現実から逃げたいのだ。それは自分に向き合うことから逃げる事でもある。旦那氏や子どもたちがいる限り、どんなに足掻こうとも逃げるという選択肢はありえない。それを受け入れるために、自分と向き合うために坐るのだ。なによりもそれを優先した途端に、猫が帰ってきたのは偶然とは思えなかった。

坐禅に行き、老師との面談の中で聞いてみた。
人はなぜ自分と向き合わないといけないのか。向き合わずに過ごす人もたくさんいるというのに、わたしはなぜ自分と向き合うのがこんなにも怖いのか。
老師の答えは明快だった。
人にはいろんな段階があり、向き合わなくても生きていける人もいる。どんなに逃げたところで、根本的な問題からは逃げられない。その人に必要であればいつか自分と向き合うことになる。だから、それまではのらりくらり、坐ることを辞めずに自分を整えておきましょうね、と。

占星術的には月は心を表し、本能的な欲求も月に出てくる。落ちてきそうな大きな月の夢は、わたしに心と向き合え、自らの内側と向き合えと語っている気がした。

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